お題『きみに恋したあの日から』ver.2
お題『きみに恋したあの日から』
条件[今日はいつもと違う匂いがするね/俺なら泣かせたりしないのに、なんて言えないけど/馬鹿だな、ってわらってくれたら]
また例の企画です。なんとか条件をクリアします。
「今日はいつもと違う匂いがするね」
彼女の背を指でなぞる。いつもの通り、返答はない。
ぼくは優しい声で言葉をつなぐ。いまだ肉体的なつながりを持っていないぼくらをつなぎとめるのは、言葉だけだ。
「すきだよ」
限りない慈しみを込めて、焼きあがったばかりのパンを撫でていたら、突如として背中を蹴られた。
「おい早くしろろくでなし。毎日毎日パンに話しかけやがって。気持ちわりい」
ぼくは決して返答をしない。
ぼくとこの人との間には言葉のつながりすら必要ない。労働と、対価だけの関係なんだから。
「おまえ、まだ学生だよな?いい加減学校行けよ」
無視だ。関係ないくせに。
「まあおまえが何してようがおれにゃ関係ないけどな」
なんだ。よくわかってるじゃないか。ぼくはこの人に干渉しない。この人もぼくに踏み込まない。そんな漠然としたルールの下で、このさびれたパン屋は回っている。
今日は何人来るかな。
向かいの穴だらけの工場を尻目に、ぼくはトレーを持って立ち上がる。
さあ、仕事の時間だ。
🥐 🥐 🥐
おれはパン屋の店主だ。
偉そうに言ってみたはいいが、いつまで店が保つかわからねえ。
毎朝早起きしてパンを焼いても、その大半が晩にはごみ箱行きだ。
作るだけ無駄。だが店頭にパンが並んでいないパン屋なんてありえねえ。
夢がねえってもんだぜ。
けどなあ。
いつまでも赤字を出してるわけにもいかねえし。
かといって店を盛り上げるノウハウもねえ。
アルバイトを一人雇っているが、あの坊主をいつまで置いておけるか…。
あいつは、おれが面倒みてやらねえと。
1か月前だ。店に入ってきたカナブンと格闘していたら、来客を知らせる音が響いた。
ドアに簡単なベルがぶら下がっているのだ。我ながら気に入っている代物で、開店時からずっとある。っっても5年かそこらか。
「おう!らっしゃい!」
ラーメン屋じゃないんだから、とかつての友に言われたことを思い出す。
「安くしてあるぜ!たっぷり買ってってな!」
やかましい店主さんだこと、と近所に住んでいたおばあさんがほほ笑んでいたことも思いだした。
もう、彼らはこの街にいないのに。
「ぼくを…」
「あん?」
「ぼくを、雇ってください」
「はあ!?」
不思議な雰囲気のガキだった。
おれを見ているようで、なにか違うものを見ているような。
どこか上の空に見えるのに、妙にこだわりのある男に感じた。
年齢は中学生ってところか。
「あのなあ、うちにバイトを雇う余裕なんて」
「あります」
「おめえ…」
「大丈夫です」
フン。面白い。
どちらにせよ、ずっと独りじゃ暇だった。
そう思って雇うことにした。時給は500円。驚いたことに文句は言われなかった。
まあ、パンの処分も兼ねて三食食わせるハメになってるからかもしれんがな。
驚いたことはもう一つあって、1か月間、彼は一度も休まなかった。
学校はどうしたのか気になったが、応えてくれた試しはない。
つうか、大抵の質問はガン無視だ。いい度胸してやがる。
そのくせ焼き立てのパンには毎日ぼそぼそと話しかけている。本当に薄気味悪いガキだ。そういえば名前も知らない。一体どこのどいつなんだろう。
🍞 🍞 🍞
18時に店が閉まれば、ぼくの仕事はおしまいだ。
かららんといい音がするドアをくぐり、夜風を受けて歩き出す。
角を曲がって、まっすぐ行って、角を曲がって、誰もごみを回収しないゴミ捨て場を通り過ぎて、無人の家に入る。ベッドに虫が湧いている。仕方なく、壁に身を委ねて目を閉じる。静かだ。
人のことは簡単に殺せるのに、自分は案外死なないもんだな。
ぼくなんか生きてたってしょうがないのに。誰も罰する人なんていない。
電気もガスも水道も止まったこの家から突然住人が現れて「誰だ!」と叫ぶこともない。
この街には先の短い老人が数十人と、同じく先の短いパン屋と八百屋があるだけだ。
本当はぼくの家もあったはずなんだ。
でも、両親の死体が転がるあの家に、帰りたいとは思わない。
🥖 🥖 🥖
「俺なら泣かせたりしないのに、なんて言えないけど」
今日もやってる。アレはなんの儀式なんだ?
「それでも、ぼくはきみを想っているよ」
一人称変わってるじゃねえか。
『儀式』の最中のあいつは、一体何を見ているのだろう。
相変わらずここじゃないどこかを傍観しているような虚ろな目だが、パンに話しかけるときだけは少しだけ優しさの色が灯っている気がする。
来客を知らせるベルは鳴らない。この店で、おれとこいつだけが、このかぐわしい香りを知っている。それはどこか、秘密基地を発見した子供時代の高揚感を思わせた。
「なに見てるの」
おれは初めて、人の声に恐怖を感じた。
どこからそんな冷たい声が出るんだ。
振り返った少年の目は今日も暗い。
少年が近付いてくる。
おれは硬直して動けない。
それが最後だった。
「馬鹿だな、って笑ってくれたらよかったのに」
薄れゆく意識の中で、優しい声が聞こえた。
「結局おじさんも、ぼくを罰してくれないんだね」