とらの徒然

ネコ科のペンギン

夢日記 20200715

寮のベッドにうつ伏せになって絵本を読んでいたら、彼から電話がかかってきた。


「海、来てよ」
「おっけ」


ぼくらはいつも、最低限の話しかしない。
飾られた言葉を必要としない関係をぼくは心から大切に思っているし、それは彼だって同じはずだ。


ぼくは絵本を閉じ、本棚にしまう。
黄色の表紙が浮かないのは、部屋が明るい色で満ちているからだろう。
暗い部屋にいると気分が暗くなるからと、昔彼が言っていた。


もう夕方だから半袖のTシャツじゃ肌寒いかもしれない。
薄手のパーカーを羽織り、姿見で寝癖がないことを確かめると、机に置いてある鍵を手にして部屋を出た。


外は曇り空。
生温い風が潮の香りを運んでいる。
前髪が目にかかって、そろそろ髪を切らなきゃなあと思う。


ぼくは軽やかに走り出す。
彼が待つ海までは2分ほどで着くはずだ。


いくら彩りを施した部屋に住まおうとも、ずっと引き籠っていると、心が濁るってもんだ。
隣の部屋から楽しそうな笑い声なんか聞こえれば、ついつい舌打ちも出てしまう。
舌打ちやため息は人に不幸を呼ぶと言われるけど、ぼくは違うと思う。
もう舌打ちやため息の時点でその人は不幸なんだ。それによって不幸になるのは因果関係の逆転だ。


なんて言ってると理屈っぽいと思われるだろうか。


でも、こうして外に出ると、精神が浄化されているような気がする。
風に乗った澱はどこに向かうのだろう。
ぼくから流れ出た澱が誰かの心を黒く染めているとすると、なんだか申し訳ないような、いやでもやっぱりちょっと嬉しいかもしれない。
ぼくは昔から、誰かに影響を与えられない人だったから……。
ぼくのために怒ったり泣いたりした人が、これまでかつていただろか。


海は凪いでいた。
彼はサンダルを脱いで、海の中に立っていた。
静かに沖を眺める彼はなんだかとても奇麗で、ぼくはスマホでその風景を切り取る。


「待たせた」
「大丈夫」


ゆっくりと彼が振り返る。
その首には蛇のような何かが巻きついているけど、もう慣れた。


その化物は彼と一体化していて、離れることはない。
彼の細い首との繋ぎ目は毒々しい青紫色に染まっているのに、痛みはないらしい。
化物は彼とは異なる意思を持っていて、好き勝手に頭を動かしている。
化物は彼にも、他の人間にも危害を加えたことはないという。
けれど、何を考えているかわからない目で射抜かれると、ついついギクッとしてしまう。


「呼び出して悪かった」
彼は首に巻き付く"それ"などまるで気にせず、最低限の言葉を放った。
いつも無表情で口数も少ないから、何考えてるかわからないところはこの化物と同じだな、と苦笑する。


手の届く距離に来て、ぼくが返事をするとき、お約束通り事件は起こる。
ハッとしたとき、化物の口は眼前にあって、ぼくは暗闇に吸い込まれる。
牙が顎の下にくい込んでいる。
やばい。
血が流れる。
命の危機に晒されて、ぼくの両手は存外合理的に動いたらしい。
頭に噛み付いた化物の口を両手でこじ開け、なんとか脱する。
頭と首から血が滝のように流れている。
温かい。
こんなに温かかったのか。
パーカーなんか要らなかったかな。


彼は悪くない。
わかっている。


それでも、ぼくの目は信じられないものを見るように見開かれているのだろう。


「違う……」
声が聞こえて、我に返る。


「違う!違うんだ!おれじゃない!違うんだ!違うんだ!違うんだよ!」


彼が取り乱す姿を初めて見たのに、ぼくは無感動だ。


「信じてくれ!おれじゃないんだ……」


不意に手を差し出されたとき、ぼくは一歩後ろに飛びずさっていた。
そして、彼が大きく目を見開き、悲しげに瞼を閉じる。


「違うんだ……」


ふるふると首を振って、彼は後ろを向いた。


「うわああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」


彼は叫び声を上げて、化物の首を絞める。
苦しみは伝播するのか、彼自身も身を捩り、膝をついている。
それでも、首を絞めることをやめない。
泣き叫びながら自殺行為で悶える姿は見ていて哀れだった。
ぼくは、ただ見ていた。





しばらくして、ぱしゃりと音がした。
それは写真を撮る音にも聞こえた。
首を絞めるのをやめて、後ろを振り返る。


そして理解する。
今のは、水の音だったのか、と。
一瞬、友だちが何故伏しているのかわからなかった。
涙が止まらない。
何だ。何故だ。一体何が起きている?


赤黒い液体はこの世のあらゆる憎しみを凝縮したようだった。
放り出されたスマホの画面には、化物を担いだ青年が海の中で仁王立ちしている。


もう首を絞める気にはなれなかった。
今度は「彼」が立ち尽くす番だった。


ただただ、立ち尽くした。