とらの徒然

ネコ科のペンギン

鹿ノ島

ご存知の通り、かどうかはわからないが、私は数ヶ月前から鹿児島に住んでいる。私は横浜生まれ、横浜育ちの生粋のハマっ子で、横浜以外に住むのは初めてであった。


というわけで、今回は鹿児島という地にフォーカスして記事を書いていこうと思う。
まず最初に、多くの方が犯しているであろう勘違いを正しておきたい。


なんと、鹿児島に鹿はいない。
当然、親がいなければ子もいない。


「鹿の子供の島」を名乗っておきながら、これはどういうことだ。おかしいだろ、詐欺じゃないか!と、読者の皆様を代表して鼻息荒く市役所へ出向いたら、鹿の子供は元々沢山いたのだと職員が優しく教えてくれた。ついでに「鹿児島」とは、桜島を指す単語だったらしい。


なるほど、桜島は今では陸続きになっているが、昔は海を隔てた「島」であったとどこかで聞いたことがある。火山灰が積りすぎて大隅半島と繋がってしまったと。本当か?


とにかく話を纏めると、「鹿児島」とは桜島のことで、かつてそこには鹿の子供が沢山いた、ということだ。


ならば、桜島へ向かうのは必至。
桜島は陸続き、とはいえ、鹿児島市内からはフェリーで海を渡った方が近い。鹿が泳いでやしないかと、水面に目を凝らしながら波に揺られる。船内へ目を向ければ、黒豚カレーパンが売られている。迷わず購入し、獣のように貪った。旨すぎる。豚肉とカレーとパン。旨いものを混ぜたら旨いに決まっている。基本的に食べ物は混ぜれば混ぜるほどよい。テンションが上がってきた。「やっほーー!!」甲板で叫ぶ。静かだ。


船内を這いずり回り、いよいよやることが無くなってきた頃、桜島へ到着した。時間としては20分くらいか。


フェリーから一歩を踏み出した時、明らかに異質な空気を全身で嗅ぎ取った。鹿児島に住んでいると景色の一部として溶け込んでしまうが、桜島はれっきとした活火山である。いわば人類にとって死地。大自然への畏怖が靴底から駆け昇る。


なんてことは、まるでない。
当たり前だが、桜島へ上陸したが最後、桜島は見えなくなる。「見ろ、あれが桜島だ。すげぇ迫力だよな」とか言えなくなるのだ。山から離れていた方が山を感じるというのは如何ともし難い。海の向こうに霞む鹿児島市街を見遣り、「へえ、意外と建物あるじゃん」と呑気なことを考えてしまう。


しかし、遊歩道を歩いていたら、認識を改めざるを得なくなった。そこら中に、黒い溶岩の塊がごろごろと落ちているのだ。
すなわち、溶岩が優にここまで飛んでくることを示唆している。今噴火したら命ないじゃん。溶岩に焼かれるか、頭ぶち抜かれるか。リアルミーニングで死地だな、と考えたその時、動物の鳴き声が鼓膜を震わせた。


「にゃーん」


鹿か!?
あるいは猫か。
そういえば鹿ってなんて鳴くんだ?そもそも鳴くのか?鹿がにゃーんって鳴く可能性は排除しきれないぞ。
どうでもいいけどチーターは「にゃーん」って鳴く。マジで。「ガオー」じゃなくて「にゃーん」。これ知った瞬間にチーターの株は一気に下がった。情けなさすぎるでしょ。めっさ弱そうじゃん。
因みに先程の鳴き声の正体はやはり猫だった。「にゃーん」と私も鳴いてみるが、猫はどこかへ逃げてしまった。にゅーん。


とまあ、鹿児島に鹿がいないことは充分に伝わったと思うので、次の話へ移るとしよう。


日々、鹿児島の街を歩いていて驚いたことが、大きく二つある。一つ、意外と栄えている。二つ、公園が利用されている。


有り体に言わせてもらえば、引越して来る前、鹿児島はど田舎だと思っていた。鹿児島の「島」は陸の孤島の「島」とか言って。許して。謝るから絶対許して。


でも思ってた以上に住みやすかった。
何がいいって、必要なものが全部一箇所に集まっていること。狭い範囲にあらゆる店や施設が集中していて、ちょっと中心から離れると田んぼばかり、という田舎あるある。やっぱ田舎なんじゃねえか。


狭い範囲、とはいえ、流石に公共交通機関は通っている。横浜の感覚でいくと電車が思い浮かぶが、鹿児島の電車を信頼してはいけない。1時間に1本走ってるか怪しいレベルだから。


なら何を使うか?
バスと路面電車である。


因みにバスも信頼してはいけない。時刻表では1時間に4本くらいのペースのはずだが、時間通りに来た試しはない。来るはずのバスが3本来てないぞ…とバス停で呆れていたこともある。
雨の日は特に顕著で、ガチで永遠に来ない。多分流されてるんだと思う。そう思わせるほど鹿児島の雨はハゲしい。いちいち雨粒がデカいんだ。雨垂れが石を穿つなら、鹿児島の雨はバスを浚う。
ついでに路面電車も信頼してはいけない。歩くのとほとんどスピード変わらないから。


ということで、鹿児島で使える交通機関は、徒歩です!!
田舎じゃん。謝んないわ。


続いて驚いた点の二つ目、公園が利用されていることについて。
まず中心地に公園がいくつもあることがすごい。鹿児島市は緑や水に溢れていて、あちらこちらに公園やら噴水やら並木やらよくわからんオブジェやらが整えられている。お陰で鹿児島は非常に長閑な雰囲気を纏っている。


ただ、もし仮に都会で同じことができたとしても、長閑にはならない気がするんだ。実際誰も公園で寛ごうなんて思わないんじゃないか?


都会には心と時間の余裕がなくて、公園?誰が使うんだよ、なんの利があるんだよ、土地を遊ばせておくな、有効活用しようぜ、といった共通認識がありそうだ。
現に、幼い頃に実家の近くにあった公園は、次々と住宅地に変わっていったし、辛うじて残っている公園も今やほぼ無人の状態だ。強いて言うなら、ごくまれに携帯ゲーム機を持ち寄った小学生がいるくらい。あと寝てるおじさん。


鹿児島は違う。
公園の傍を通れば、必ず本を読んでいる人、ボール遊びをする人、談笑する人などなど、色んな人がいる。
さらに驚くべきは、それは年配の方々ではなく、10代20代と思しき方がほとんどなのである。
私と同い年くらいの青年たちが楽しげにボールを蹴り合う様を、もう何度も目にしている。
都会の空気に当てられて忘れてしまった価値観を、なんて言ったら、陳腐だろうか。けれど、そう思わざるを得ない。はっとしてしまった時点で、私の負けだ。


さてと、私も少し、休憩していこうか。
公園のベンチに座り、追いかけっこをする幼子を眺める。
可愛いなあ。声が漏れる。
物も人間も、基本的に小さければ小さいほど可愛い。


ぽつりと、雨粒が頬を撫でた。直後、バケツをひっくり返すような豪雨。
屋根の下へ逃げる人々。はしゃぐ子供たち。母親の怒号。リードの先ではボールを咥えた四足獣が楽しげに跳ねている。どうせあれも、鹿ではないのだろう?鹿の定義がわからない。
私は傘を差して、帰路につく。バス停へ向かおうとして、やめた。
そう、どうせ来やしない。


歩き出した視線の先、桜島に霧がかかって霞んでいる。
それはまるで、決して越えられぬ壁のようで、この地が陸の孤島だと思ったこと、やはり私は謝るつもりはない。交通機関が死んでいるこの地において、県外へ出ることは容易ではない。


されど、悲観するつもりも、毛頭ない。