とらの徒然

ネコ科のペンギン

18禁

今年のクリスマスは寒いらしい。なんと、ここ鹿児島の地でも降雪が予想されるらしく、「ホワイトクリスマスだね」なんて言葉をもらった。イベント事に疎い私は、その言葉でようやくクリスマスが近いことを認識した。カレンダーを見れば、おやまあ、今週末ではないか。クリスマスがなんだ、ただの一日じゃないか、と思わないでもないが、そうじゃない。クリスマスだとか、誕生日だとか、他にも色々な記念日は、それ自体が特別なのではなくて、単に、今一度お互いを尊重し合うきっかけにしましょうね、と言っているに過ぎないのだ。

かつての私は、それがわからなかった。

 

 

さて、それでは私に何ができるだろう?

私にできることは限られている。

そう、「私に」できることは限られているのだ。

私は、私たちではない。

 

 

憐れむなかれ!

クリスマスにすることは決まっている。そりゃ異性と戯れたい気はそれなりにある。だが知っているか。そういった欲望は、ゲームでも補えてしまうことを。

 

 

侮るなかれ!

私を侮ることの根底には、ゲームへの侮りがある。所詮ゲーム、そう思っているんだろう。それ即ち、製作者への侮りだ。製作者は魂込めて作品を作っている。消費者が満足いくようにと、精一杯の努力をしている。作品をプレイして満足感を得るのは、ある意味当たり前であり、そこを馬鹿にしてはならない。

 

 

なんだよ。なんか文句あんの。

 

 

ゲームといえばそれまでは、モンスターをしばき倒したり、配管工や裸ネクタイゴリラに赤甲羅をぶつけたりと、どう転んでも殴り合いの喧嘩に発展するものしかやってこなかったのだが、たまたまノベルゲーというものが目に入り、じゃあやってみるかと手を出した次第。

 

 

すると不思議なことに、私の人生に、青春が飛来した。二階から春が落ちてきた、って感じ。

本当に不思議だ。

私はそれなりに読書をする方だが、青春小説と呼ばれる類のものはもう読めなくなっていた。「ありえねえだろ」という気持ちが先立ってしまい、甘酸っぱさを楽しめないのだ。現実にそんな女いねえよ。夢見がすぎるだろ、と。

 

 

ところがゲームになると、それを楽しめてしまった。

なんでだ?絵がついているから?

なら漫画ならどうか?

あ、なんか楽しく読める気がする。

そうか、現実味がない分、視覚や聴覚で補えばいいわけだ。なるほど。新たな発見だ。特に活かす場所もないが。

 

 

いやしかし、この手のゲームで遊んでいると、己がとんでもなく浮気性なのではないかという気にさせられる。

攻略可能なメインヒロインは4人いて、それぞれのルートにはそれぞれ別の物語が存在している。それらすべてを回収してこそ、ゲーム全体の物語がわかるというものなのだ。

そのため今日はこの子、明日はこの子、といった状態になる。そして、先述の通り、今日も明日も、青春が飛来する。君だけが好きだ、と違う相手に囁きかける。

 

 

可愛けりゃ誰でもいいのか?

 

 

なんだよ。なんか文句あんの。

 

 

現実でも然り。

道端で「可愛いな」と思い、声をかける。先日もそんなことをしたが、理由といえば「可愛かったから」くらいのものだ。あなたではなくても、同じくらい可愛かったなら、別にあなたでなくてもよかった。そういうことになってしまう。

ただ、まあ、巡り合せだ。たまたまその場に私がいて、あなたがいた。この真実だけ〜でもう〜胃がもたれていくぅ〜ウゥ~~フゥ⤴!!!どんなカップルだってそんなものだろう。

 

 

けれど、私はその先を見据えていただろうか?

どうにも、「可愛いな」から始まる物語では、相手を尊重できない気がする。尊重には尊敬が必要だ。可愛さは、敬意の対象にはならない。どうしても愛玩の類になってしまう。消費になってしまう。

 

 

思えば、これまでの人生で、私が「その先」を見据えることができた女性は皆、尊敬の対象だった。異性である以前に、人間として惹かれた。可愛さなんてものは二の次だった。その生き様に憧憬を抱き、己の人生に投影したいと思うほどに。過ぎたことを言えば、性別すらどうでもよかったのだ。

 

 

なんてことは、まるでない。

でなければ、エロゲなんてやらない。ナンパなんてしない。

 

 

なんだよ。なんか文句あんの。

鹿ノ島

ご存知の通り、かどうかはわからないが、私は数ヶ月前から鹿児島に住んでいる。私は横浜生まれ、横浜育ちの生粋のハマっ子で、横浜以外に住むのは初めてであった。


というわけで、今回は鹿児島という地にフォーカスして記事を書いていこうと思う。
まず最初に、多くの方が犯しているであろう勘違いを正しておきたい。


なんと、鹿児島に鹿はいない。
当然、親がいなければ子もいない。


「鹿の子供の島」を名乗っておきながら、これはどういうことだ。おかしいだろ、詐欺じゃないか!と、読者の皆様を代表して鼻息荒く市役所へ出向いたら、鹿の子供は元々沢山いたのだと職員が優しく教えてくれた。ついでに「鹿児島」とは、桜島を指す単語だったらしい。


なるほど、桜島は今では陸続きになっているが、昔は海を隔てた「島」であったとどこかで聞いたことがある。火山灰が積りすぎて大隅半島と繋がってしまったと。本当か?


とにかく話を纏めると、「鹿児島」とは桜島のことで、かつてそこには鹿の子供が沢山いた、ということだ。


ならば、桜島へ向かうのは必至。
桜島は陸続き、とはいえ、鹿児島市内からはフェリーで海を渡った方が近い。鹿が泳いでやしないかと、水面に目を凝らしながら波に揺られる。船内へ目を向ければ、黒豚カレーパンが売られている。迷わず購入し、獣のように貪った。旨すぎる。豚肉とカレーとパン。旨いものを混ぜたら旨いに決まっている。基本的に食べ物は混ぜれば混ぜるほどよい。テンションが上がってきた。「やっほーー!!」甲板で叫ぶ。静かだ。


船内を這いずり回り、いよいよやることが無くなってきた頃、桜島へ到着した。時間としては20分くらいか。


フェリーから一歩を踏み出した時、明らかに異質な空気を全身で嗅ぎ取った。鹿児島に住んでいると景色の一部として溶け込んでしまうが、桜島はれっきとした活火山である。いわば人類にとって死地。大自然への畏怖が靴底から駆け昇る。


なんてことは、まるでない。
当たり前だが、桜島へ上陸したが最後、桜島は見えなくなる。「見ろ、あれが桜島だ。すげぇ迫力だよな」とか言えなくなるのだ。山から離れていた方が山を感じるというのは如何ともし難い。海の向こうに霞む鹿児島市街を見遣り、「へえ、意外と建物あるじゃん」と呑気なことを考えてしまう。


しかし、遊歩道を歩いていたら、認識を改めざるを得なくなった。そこら中に、黒い溶岩の塊がごろごろと落ちているのだ。
すなわち、溶岩が優にここまで飛んでくることを示唆している。今噴火したら命ないじゃん。溶岩に焼かれるか、頭ぶち抜かれるか。リアルミーニングで死地だな、と考えたその時、動物の鳴き声が鼓膜を震わせた。


「にゃーん」


鹿か!?
あるいは猫か。
そういえば鹿ってなんて鳴くんだ?そもそも鳴くのか?鹿がにゃーんって鳴く可能性は排除しきれないぞ。
どうでもいいけどチーターは「にゃーん」って鳴く。マジで。「ガオー」じゃなくて「にゃーん」。これ知った瞬間にチーターの株は一気に下がった。情けなさすぎるでしょ。めっさ弱そうじゃん。
因みに先程の鳴き声の正体はやはり猫だった。「にゃーん」と私も鳴いてみるが、猫はどこかへ逃げてしまった。にゅーん。


とまあ、鹿児島に鹿がいないことは充分に伝わったと思うので、次の話へ移るとしよう。


日々、鹿児島の街を歩いていて驚いたことが、大きく二つある。一つ、意外と栄えている。二つ、公園が利用されている。


有り体に言わせてもらえば、引越して来る前、鹿児島はど田舎だと思っていた。鹿児島の「島」は陸の孤島の「島」とか言って。許して。謝るから絶対許して。


でも思ってた以上に住みやすかった。
何がいいって、必要なものが全部一箇所に集まっていること。狭い範囲にあらゆる店や施設が集中していて、ちょっと中心から離れると田んぼばかり、という田舎あるある。やっぱ田舎なんじゃねえか。


狭い範囲、とはいえ、流石に公共交通機関は通っている。横浜の感覚でいくと電車が思い浮かぶが、鹿児島の電車を信頼してはいけない。1時間に1本走ってるか怪しいレベルだから。


なら何を使うか?
バスと路面電車である。


因みにバスも信頼してはいけない。時刻表では1時間に4本くらいのペースのはずだが、時間通りに来た試しはない。来るはずのバスが3本来てないぞ…とバス停で呆れていたこともある。
雨の日は特に顕著で、ガチで永遠に来ない。多分流されてるんだと思う。そう思わせるほど鹿児島の雨はハゲしい。いちいち雨粒がデカいんだ。雨垂れが石を穿つなら、鹿児島の雨はバスを浚う。
ついでに路面電車も信頼してはいけない。歩くのとほとんどスピード変わらないから。


ということで、鹿児島で使える交通機関は、徒歩です!!
田舎じゃん。謝んないわ。


続いて驚いた点の二つ目、公園が利用されていることについて。
まず中心地に公園がいくつもあることがすごい。鹿児島市は緑や水に溢れていて、あちらこちらに公園やら噴水やら並木やらよくわからんオブジェやらが整えられている。お陰で鹿児島は非常に長閑な雰囲気を纏っている。


ただ、もし仮に都会で同じことができたとしても、長閑にはならない気がするんだ。実際誰も公園で寛ごうなんて思わないんじゃないか?


都会には心と時間の余裕がなくて、公園?誰が使うんだよ、なんの利があるんだよ、土地を遊ばせておくな、有効活用しようぜ、といった共通認識がありそうだ。
現に、幼い頃に実家の近くにあった公園は、次々と住宅地に変わっていったし、辛うじて残っている公園も今やほぼ無人の状態だ。強いて言うなら、ごくまれに携帯ゲーム機を持ち寄った小学生がいるくらい。あと寝てるおじさん。


鹿児島は違う。
公園の傍を通れば、必ず本を読んでいる人、ボール遊びをする人、談笑する人などなど、色んな人がいる。
さらに驚くべきは、それは年配の方々ではなく、10代20代と思しき方がほとんどなのである。
私と同い年くらいの青年たちが楽しげにボールを蹴り合う様を、もう何度も目にしている。
都会の空気に当てられて忘れてしまった価値観を、なんて言ったら、陳腐だろうか。けれど、そう思わざるを得ない。はっとしてしまった時点で、私の負けだ。


さてと、私も少し、休憩していこうか。
公園のベンチに座り、追いかけっこをする幼子を眺める。
可愛いなあ。声が漏れる。
物も人間も、基本的に小さければ小さいほど可愛い。


ぽつりと、雨粒が頬を撫でた。直後、バケツをひっくり返すような豪雨。
屋根の下へ逃げる人々。はしゃぐ子供たち。母親の怒号。リードの先ではボールを咥えた四足獣が楽しげに跳ねている。どうせあれも、鹿ではないのだろう?鹿の定義がわからない。
私は傘を差して、帰路につく。バス停へ向かおうとして、やめた。
そう、どうせ来やしない。


歩き出した視線の先、桜島に霧がかかって霞んでいる。
それはまるで、決して越えられぬ壁のようで、この地が陸の孤島だと思ったこと、やはり私は謝るつもりはない。交通機関が死んでいるこの地において、県外へ出ることは容易ではない。


されど、悲観するつもりも、毛頭ない。

あらまほしき新入社員(2)

5月。
鹿児島に越してきて、2ヶ月が過ぎた。


そう。私は今、鹿児島にいる。
前回の記事『あらまほしき新入社員(1)』では、「中国地方で配属希望を出した。でも山陰にだけは行きたくない。頼むぜ神様」などと書いていたと思うが、あろうことに、九州。しかも、鹿児島。


だって仕方ないじゃないか。


「九州でもいい?」と人事の方に言われては、頷く他にない。その後「九州、人気なくてさ。希望者がいないんだよね」と続いたときは、得意の作り笑いも引き攣りそうだったけれど、「実は私も、九州の方がよかったかなと考えていたところです」くらいの気持ちでいることが大切だ。


これは結婚生活でも同じことが言える。
「何が食べたい?」「コロッケ」「コロッケは面倒くさいからそうめんでいいよね」「もちろん、僕もそうめんがいいかなと思っていたところだ」と、妻には逆らわない方が身のためと相場が決まっている。


自分より力のあるものに楯突いてもいいことはない。
そういうわけで、私は流されるままに鹿児島配属になった。因みに一応断っておくが、先程の話は例え話で、私は未婚である。なんなら彼女すらいない。


そんな淋しい独り身、にも関わらず、会社から与えられた寮は家族寮だった。3LDKの家に一人で住んでいる。


これは早急に妻を探さなければならない、と近くのコンビニを覗いてみたものの、陳列されている気配はなかった。「便利」を掲げる店とはいえ、まだその段階には至っていないようだ。


となると、辿り着く先は自ずと決まってくる。
信販売だ。
近頃の通信販売はすごい。文具や本、洋服にとどまらず、大きな家具や食事、エチエチなおねいさんまで、あらゆるものがボタン一つで注文できる。


案の定、すぐに広すぎる暮らしを共に歩むパートナーを手に入れることができた。ありがたいことに、彼女は毎朝私を起こしてくれている。が、彼女は少し乱暴だ。なんと、ドカドカと蹴って起こしてくる。蹴りで目覚める朝は快適とは言い難い。けれど、正解のセリフは決まっている。「ちょうど蹴ってほしいなと思っていたところなんだ」私は笑顔を見せて、仕事へ向かう。


以前にも記した通り、仕事は金融関係だ。
毎日のようにお金を触っている。私が一生かけても、いや、百回生まれ変わっても手に入らないであろう額のお金を見ていると、金がなんだ、と開き直る気分になってくる。
なんてことは、まるでない。
クレジットカードの引落とし額を見て、二度見して、天を仰ぐ。
近頃の通信販売は、便利すぎる。


家に帰ると、彼女は眠りについている。
無理もない。
毎朝私を起こしてくれるということは、私よりも早く起きているということだ。それに、私が眠る間に、彼女が部屋の掃除をしてくれていることを知っている。「あたしだって頑張ってるのに!」とヒステリーを起こすこともない。努力を認めてほしいとか、褒めてほしいとか、薄汚れた承認欲求を、彼女は持ち合わせていない。


彼女の滑らかな曲線をそっとなぞる。
くすぐったい、とでも言いたげに、身体を震わせる。
明日、彼女はまた、こっそりと掃除をしてくれるのだろう。私を起こしてくれるのも、彼女が少し不器用で、掃除の途中で私にぶつかってしまうだけだ。私を起こす機能はついていない。彼女は、掃除しかできない。


翌朝。
掃除ロボットがぶつかってくる衝撃で、目覚める。
センサーがおかしいらしい。


「ちょうど蹴ってほしいと思っていたところだ」
私は笑顔を見せて、仕事へ向かう。

あらまほしき新入社員(1)

人が2人いれば、それはもう社会なのだとよく言われる。
とすると、他人と関わりを持つ人間はもれなく社会の人、「社会人」と呼べるのではなかろうか。

母より誕生し、助産師に産声を聞かれし瞬間に、私は他者との関わりの第一歩を踏み出したわけで、つまり、私は生まれながらにして「社会人」なのである。


今回、珍しく「私」という一人称を使っているのは、私が「社会人」であったことを思い出したからに他ならない。


私は来年の4月から、とある金融機関で働き始める。
その過程については『就活と安寧』シリーズでつらつらと綴っているのでご参照願いたい。
今回から始まる『あらまほしき新入社員』シリーズは、いわばその続編だ。


私の働く会社には、全国にいくつか支店が存在する。そこで、勤務地の希望を募られた。勤務ブロック単位で希望を出せて、例えば北海道だとか、東北だとかを、言うことができる。東北の中のどこ、とは指定できない。


「中国地方を希望します」と私は言った。
その時、鳥取や島根という、常にじめじめした雰囲気が漂い、人っ子一人いない印象のある暗い県が頭に浮かび、「広島や岡山あたりがいいです」と付け加えた。勿論、そのような指定ができないことは承知の上だ。


因みに今、悪口のようなものが聞こえたかもしれないが、気のせいだ。
私の口から出る悪口のようなものは、大抵いい意味だから、そこのとこは覚えておいて欲しい。


とにかく、山陰には行きたくなかった。旅行で一度訪れたことはあって、それについて後悔はないのだけれど、もう一度という気分にはならない。いい意味で。
なのに、案の定人事担当は「中国地方ですと…松江なども入ってきますが…それでもよろしいですか?」と淡々と尋ねてきた。
私は渋面でゆっくりと頷く。今、私が最も恐れるのは山陰勤務ではない。内定取消だ。


取消イベントが発生せぬ限り、7ヶ月後には新たな生活が始まっている。そう思うとなんだか不思議な気持ちだ。
心機一転頑張ろうという意気込みもあれば、どれだけ広い世界があるのだろうという期待もあり、同時に責任や苦悩を背負わねばならない絶望もある。楽しいことばかりではないはずだ。寧ろ、辛いことの方が多い。でもやはり、若干楽しみな部分もある。


そういえば先日、同期となるメンバーと、オンラインで顔合わせをしたんだった。
彼らと仲良くやっていけるだろうか。


同じ選考を通過しているのだから、それなりに似たタイプが集まっているようには感じられた。
人付き合いがさほど得意ではない私にとって、これほど有難いことはない。


けれど人は、歳を重ねるにつれて、自分を曝け出すのが下手になる。
以前、近所の猫が言っていた。
「大人が一番怖がることって知ってる?「助けて」って言うことだよ」


助けて。と言えるような、また言ってもらえるような関係でありたい。
まあでもきっと、なるようになるさ。


何故かって?
おれは字義「社会人」として22年も生きてるんだぜ。いつまでもルーキーのままではいられないだろ!
それに、私は末っ子だ。甘えるのには慣れている。助けを求めることなど造作もない。
ついでにもう一つ言えば、私は長男でもある。甘えられるのにも慣れている。かもしれない。


なんだ、無敵じゃないか。
いや、無敵じゃない。敵はいた。
忘れてはいけない、本当に日本なのか疑わしい、あの山陰地方だ。勿論、いい意味で、ではあるけれど。

温かなブラウザバック

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」

 

 

「インターネット」もしくは「テキスト文化」をお題にしてブログを書き、入選するとお金がもらえるらしい。なんともまあ漠然としていて書きにくいテーマではあるが、このブログ自体がそもそもテキストで、かつインターネットで発信しているところを見るに、結局何を書いても上記テーマにこじつけができる気がする。

なんて言ったら、ブラウザバックされてしまうだろうか。

 

 

「あの頃に戻りたい」

と、誰しもが思う。 現実はつらくきびしく、過去はいつだって温かな光で満ちている。しかし、どんなに懐古主義に浸ろうが、この世界にブラウザバックのコマンドは通用しない。無慈悲なものだ。



いや、本当にそうだろうか。

過去を思い返す能力は、人間に与えられし特権だ。

懐古主義に浸れるという事実こそが、ブラウザバックなのではないのか。そう思い、ぼくは記憶の海に潜る。



皆さんにとって、一番古い記憶はなんだろう。小学校?幼稚園?あるいはそれ以前?

ぼくの通っていた幼稚園には、ウサギがいた。白くてふわふわした、愛らしいウサギだ。ある日、ぼく彼女にエサを与えた。差し出された草をウサギは懸命に噛んで飲み込み、仕舞いにはぼくの指を噛んだ。



指から血を、目からは涙を流したぼくは、母にムーミンの絵柄の絆創膏を貼ってもらった。温かく、美しい思い出だ。



しかし、考えれば考えるほど曖昧になる。これは、本当にぼくの記憶か?アルバムに写真として残っているから、覚えている気になっているだけじゃないのか?



実際、どれほど痛かったとか、どの指を噛まれたとか、そもそも右手だったか左手だったかすら、覚えていない。

感覚として覚えていないならば、出来事を「知っている」だけだ。そして、なぜ知っているかと言えば、パソコンに写真が保存されているからだ。写真が、ぼくに「記憶」と錯覚させている。

そして、その写真は、インターネットを通じたクラウド機能で幾世代ものパソコンを渡り歩いて、ぼくの記憶を繋いでいる。それはまやかしのようでもあり、賞賛するべきことのようでもある。



つまり、データが記憶を作り、インターネットが記憶を繋いだのだ。



先程思い出してもらった、皆さんの「一番古い記憶」は、本当に皆さんの記憶だろうか。本当に?



感覚が伴うという意味では、ぼくの一番古い記憶は一つしかない。

人生で初めて「恥ずかしい」という感情を覚えた出来事で、今でも昨日のことのように思い出せる。これは、写真に残っていない。残っていたら、大変だ。



あれは幼稚園の年長、そして半ズボンだったことから5歳の出来事だ。

幼稚園では給食が支給されて、皆で着席して食べていた。ぼくもまた例外ではない。ただ、他の人よりも焦っていた。



ぼくは食べるスピードが早くなかった。

胃袋が小さいのか、皆が食べ終わっているのに自分だけ食べ終わっていない、という状況が多々あった。皆に見られながら食べるのは恥ずかしかった。いや、実際は誰もぼくを気にしてはいなかったろうが、それでも恥ずかしかったのだ。



その日、ぼくはおしっこを我慢していた。

限界に至るまでいくつものステップがあるはずなのに、尿意を意識した時には既に限界だった。電車が急停止するときのアナウンスに似ている。「急停止します」と言い終わる頃には、もう急停止している。「おしっこしたいかも」と思う頃には、もう限界だ。



運の悪いことに、限界を感じたのは給食を食べている最中だった。

5歳ながらも賢明かつ聡明、教育が行き届いていたぼくは、食事中にトイレに立つことが行儀の悪いことだと知っていた。



だから、限界を抱えながらも、トイレに立つことはしなかった。イスを左右にガタガタ言わせながら、懸命に箸を動かした。食べるスピードが遅いことが、心底もどかしかった。もう飲み込めるだろ!まだか!あと何回噛めば飲み込める!次!しまった入れすぎた!噛め!お茶で流し込む!まだか!まだ飲み込めないのか!

ぼくの体は、ぼくの予想の5倍くらい噛まないと飲み込めないようだった。迫る尿意。イスをガタガタと揺らす。揺らしていないと、出てしまう。人は漏れそうなとき、じっとしていられないものだ。逆に、揺らしてさえいれば出ないと、このときのぼくは信じてさえいた。



思うに、限界は越えられないからこそ限界なのだ。

たまに、限界を越えろ、なんてセリフを聞くが、越えられるのならばそれは限界ではない。

だから、漏らすのは仕方のないことであり、必然でもあった。



動かすことをやめたイスの下に、静かに水溜まりができていく。それとも、尿溜まり、とでも言うべきだろうか。

びちゃびちゃと音がするようなことはなかったから、黙っていればバレないんじゃないかと、ぼくは思った。年長にもなって漏らすのは恥ずかしいことだと、漏らした後で、思った。



尿溜まりは広がっていたが、ぼくは何気ない顔で給食を食べ続けた。続けようとした。しかし、隣の女の子が気付いてしまった。ぼくは今でも彼女を恨んでいる。



「おしっこ?」



純粋な瞳で、ぼくに問う。

違う、と言いかけて、俯く。違わない。わかっている。



先生がやってきて、ぼくをトイレへと連れていく。その様子を、クラス全員が見ていた。

違うんだ。ご飯中にトイレに行くのは行儀悪いって、そう思ったから、だから、仕方なかったんだ。

言い聞かせても、惨めな思いは消せない。人前で粗相をすることの恥ずかしさを、初めて知った瞬間だ。去年までは、何とも思っていなかったのに。人はこうして成長し、進化を遂げてきたのだろう。



これは、紛れもなくぼくの「記憶」だ。

データとインターネットによって残り続けるものではない。ならば、ぼくさえ忘れてしまえば済む話だ。



過去を思い返し、

「あの頃に戻りたい」

と、誰しもが思う。いつだって現実はつらくきびしく、過去は温かな光で満ちている。



本当に?

満ちていたのは、温かな尿溜まりだけだったじゃないか。 

水俗館

水族館は、水族の館なのであって、人間が水や俗に染まる場所ではない。
と、小学校で習わなかったのだろうか。


エントランスの前のベンチでは、女の膝枕でtake a napをしている男がいるし、水槽の前の男は、傍らの女の髪を梳いている。
繰り返すが、水族館は、水族の館なのであって、人間が水や俗に染まる場所ではない。


周りを見れば、カップルしかいない。
少々うんざりしながら、いやうんざりするのもおかしな話なのだが、エントランス近くのベンチで連れを待つ。さっき、膝枕星人を発見した場面だ。


ここには、3人がけくらいの大きさのベンチが、全部で7つくらい置いてある。
誰も座っていないベンチが半分くらいで、残り半分はカップルが占拠していたり、美女が1人で佇んでいたりする。


おれは誰も座っていないベンチを目指して美女の前を通り過ぎ、思い直して、数歩戻って美女のいるベンチに腰掛ける。
そう。それくらいの抵抗しかできないのだ。世界は雄大で、おれは弱い。


おれは、ショートカットの女の子が好きで、その子も例外ではなかった。
可愛い、と言えば可愛いのだが、そこに甘えや媚びはなく、凛として背筋の伸びた姿勢が眩しく見えた。ちらりと横目で盗み見る。んー、可愛さと強さのハイブリッド。世界は雄大。彼女が優勝。おれは、弱い。


彼女がカバンから本を取り出して、読み始めた。
ので、おれも同じことをした。ミラーリング効果、と脳内コンピュータが囁く。


微塵も面白くない小説だったが、同じ空間で、同じ動作をしていることに、微かにではあるが、誇らしさと気恥しさを感じる。それは相手も同じだったようで、ちらりと送った視線がぶつかったとき、はっとした。少々のぎこちなさを伴って、驚きが微笑みに変わる。好きだ。瞬間、心臓が跳ね、世界は2人を中心に音速を超えて拡大し、彩は溢れ、澄み切った空が祝福の鐘を鳴らすかに思えた。つまり、恋愛の萌芽と呼ぶべきものが、今、ここにあった。


なんてことは、まるでない。


そんなことを言っていたら、これから来る子がむくれてしまう。そんなわけないか。少なくとも、今は、恋人ではないのだから。


当の待ち人が来て、長崎のお土産であるカステラを無愛想に渡して立ち上がったとき、おれは無意識のうちに「じゃ」と言っていた。
言ってから気がつく。
おれはベンチの美女とは知り合いではなかった。「じゃ」もクソもない。別れの挨拶は要らなかった。連れに向かって、「じゃ、行こうか」と平然と続ける。あなたへの別れは、心の中で告げておこう。


水族館に入ると、予見した通り、カップルだらけだった。しかしどうだろう。自分ら2人も、周りから見ればそうなのだろうか。誰かの目には、幸せなカップルとして映っているのかもしれない。
クラゲコーナーのイルミネーションに「綺麗だね」なんて言い合う様は、確かに、それらしい。


自分が恵まれた立場にいながら、周りを羨んでしまうのは悪い癖だ。隣にいてくれる人への感謝を、つい、忘れてしまう。
カップルを見れば「爆発しろ」と思う回路は、最早意識とは切り離されているし、美女を見て憧憬と劣等感を抱くのも、おれの関知するところではない。長年の習性だ。それも、いつか薄れていくのだろうか。だといいな、と思う。ベンチの美女にだって、あんな想いを抱く必要なんて、もうなかったのに。


肩を並べて、水のトンネルをくぐり抜ける。
ペンギンの水槽の前で、男が女の髪を梳いている。女は気にしない素振りで話しているが、顔は愛される嬉しさを隠せていない。
「爆発」と思いかけて、首を振る。また悪い癖だ。いい加減、治さないと。右隣の人に失礼だ。


おれも、同じことができるだろうか。
幸せに見える、実際はどうか知らないけれど、少なくとも周りからは幸せに見えるカップルに囲まれて、思う。
おれも、同じことができるだろうか。
おれたちは、彼らと同じだろうか。
右手を見る。
少し身長の低い、あなたのつむじが見える。


いいや、できない。それは違う。
さっきも言った通り、おれたちは、少なくとも今は、付き合っていない。


いいや、それ以前にーー。
「おい、あの水に飛び込もうとしてるペンギンにアテレコしようぜ」
右隣の『彼』が言う。おれは、ゲイではない。

就活と安寧(最終回)

前回↓

r-tryangel.hatenablog.com

 

 

就活が安寧を奪うとか、安寧を齎すとか、そんなものはどちらでもよい。

正解はたった一つ。

 

 

「内定が安寧を齎す」だ。異論はなかろう。

 

 

さて、おれの就活も終わりを迎えた。

思い通りに行ったこと、行かなかったことと色々あったわけだが、一番の誤算は、資格が全くもって役に立たなかったことだ。

不動産に関する資格を大学2年のときに取って、漠然と不動産業界に属する将来を描いていたら、あろうことかESで蹴られGDで蹴られ、最終的にはノリで受けた金融業界に就職である。

わけがわからない。

人生は思い通りにいかないとはよく言ったものである。

 

 

いや、少し違う。

必ずしも「やりたいこと」と「向いていること」が一致しないことに気づいていなかっただけだ。

おれは不動産業をやりたがったが、仕事内容はおれ向きではなかった。

営業で外回りをして、巧みな話術と駆け引きで土地や物件を仕入れることがおれにできるだろうか?

否である。

思えば、不動産業界は選考にGDを入れていることが多かった。それは、集団の中でも埋もれない「個」を求めている証拠であり、率先して発言、誘導するスキルが必要になる。

おれはGDに通ったことが一度もない。向いていなかったのだ。

 

 

一方で、就活生側が一人の面接は、すべて合格している。

きちんと話す機会が確保されれば、おれは落ち着いた対応ができるし、強みも活きるということだろう。

忘れないうちに面接でされた質問をメモしておこうか。

とはいえ忘れてるものも沢山あるだろうけども。

 

 

難易度★

お名前と自己紹介をお願いします。

よく言われることだが「自己紹介≠自己PR」を認識していればこれほど容易い質問はない。

自分を大きく見せず、単にステータスを述べればいいのである。この際、後々PRで使えそうな要素を散りばめておくのが賢いだろう。

例えばバイトで特殊な経験があるのならバイトをしていることを話すといいし、ゼミでの経験を持ってきているのなら、どんな研究をしているかに触れるといい。

 

 

学生時代に最も力を入れたことはなんですか?

所謂ガクチカ

思い返せば、おれは何を頑張ってきただろう。何も頑張っていないじゃないか。

そんなことはわかってんだ!みんなそうだ!捻りだせ!

この質問は言い換えれば「苦労したことはなんですか」だ。それに対してどのような対処をしたかをアピールすることが重要。

そしてかなり細かい部分まで突っ込まれたり、「こういう解決策じゃダメなん?」とか「それだと〇〇なことにならない?」とか面倒なことを言われたりする。解決策にはきちんと理由をつけておくべきだ。

当然ながら嘘はバレるので注意されたい。違う場面の出来事を、あたかも一つの出来事かのように繋ぎ合わせて語るのはOKである。名付けて「経験のパッチワーク」

さらに気をつけねばならないのが「二番目に頑張ったことは?」の追撃。ただ、用意していれば怖くない。三番目は来ないだろう。

 

 

学業で力を入れたことはありますか。

学業に限定してくることもある。確かに、ゼミに入っていないと答えにくそうな質問ではある。おれは一般に頑張らないが、勿論全力を挙げて頑張ったことになっている。

何か具体的な成果があるとよりよい。論文を完成させたとか、その程度で十分だ。

「なんでそのゼミに入ったんですか?」って追撃が来る場合もある。「先生の授業の仕方が好きだったからです」と正直に言った。「研究内容に興味があったわけではありません」とも。

だってそうだろ。森林に最初から興味持ってるやつがいるか?いるかもしれんが。

 

 

あなたの長所を教えてください。

ガチで見つからないこともあるとは思うが、別に事実である必要はない

こういう人間になりたい、こういう人間が欲しいんだろうな、と思う人柄を長所としてでっち上げればオールオッケーである。

なお、具体的なエピソードは問われるので用意する。どういう場面で発揮されたか、ってこったな。先述の自己紹介での伏線が、ここで活きる。

 

 

最後に何か質問はありますか。

いわゆる「逆質問」

調べればわかることは聞かない。

自分が入社した後をイメージした質問が無難かつ万能。

「後輩にどんな注意をすることが多いですか」「仕事をする上でどのような気持ちを持つことが大切だと思いますか」的なことをおれは聞いてた。

 

 

難易度★★

あなたの欠点はなんですか。

長所とは一変、難しさが急増。

本来なら「協調性がないっす」「努力が嫌いですてへぺろ」とか言うべきところだが、何度も言おう。別に正直になる必要はない

「まあ短所にも長所にもなるよな」「一長一短ってやつだな」と思われる丁度いいものを欠点として語り、その後で「ですが、今申し上げた欠点は言い換えると〇〇ができるということでもあるので、私はそのような面で貢献していけたら」的なことを言えばいい。すべてはネタ次第。

おれは「カリスマ性やリーダーシップがないことが欠点。だけど、一人一人と目線を合わせて話はできるから、信頼関係を築くことはできる」と話した。物は言いよう。

因みに、おれの友達で「欠点はない」と言い切ったやつがいるらしい。よぅやるわ。

 

 

リーダーシップを取った経験はありますか。

なかったので、正直に「ありません」と答えた。勿論、上記の通り「ただし…」と続くわけだが。

似たような質問に「集団の中でのあなたの立ち位置を教えてください」というものもある。これも正直に答えるといい。

おれは高校時代の部活では「部長などではなかったが、チームの弱点を把握し、練習メニューを考えてチームの力を向上させる役割にいた」ことになっているし、サークルでも、まあ似たようなことになっている。

 

 

座右の銘のようなものはありますか。

「人畜無害」と言いそうなのをすんでのところで我慢した。

次におぼろげに頭に浮かんだ言葉が、高校時代、部活の顧問が言っていた言葉、「迷ったらGO」。

そう、迷ったらGOだ。気づけば口に出していた。

 

 

クレームとか結構来るけど大丈夫?

「クレームって言い換えれば向こうから直すべきとこ呈示してくれてるわけっしょ?やることわからんくて手探りの状態よりよくね?」と即座に返答。

我ながら屁理屈が冴えている。

 

 

休日は何をしていますか。

睡眠。ゲーム。いじょっ!
とは言えないので、小説と語彙力強化の本読んでることにした。

もう一つ、アウトドア関連を入れればよかった気はする。散歩とかランニングとか。

活発な若者は気に入られがちだからね。

 

 

気になるニュースはありますか?

急に来ると驚く問題。

幸い、おれは毎日新聞を読む癖があったので切り抜けることができた。

が、もし新聞やニュースに触れない生活をしていれば厳しい質問になろう。あまりにありきたりなことを言ってもよくないだろうし。例えば、今の時期だとコロナとか。何の面白みもない。

就活の時期だけはニュースに目を光らせるべき。特に、志望する業界に関するものは見つけ次第メモしておくとよい。

 

 

尊敬する人は誰ですか。

困ったらエジソン。嘘です。

これに関しては身近な友人とかの方が答えやすいのではないか。あなたの周りに尊敬すべき友人はいるだろうか。いないなら、友達付き合いを考え直すべきだろう。

 

 

苦手な人はどんなタイプですか。

一般的なこと述べときゃいいんちゃう?自己中とか皆嫌でしょ。

「ならそういう人とどう付き合っていく?」と聞かれるかもしれない。付き合わないという選択肢はない。

 

 

あなたは友人からどんな人だと言われますか。

初見でビビる質問。面接では一貫性が大事なので、PRで述べた「長所」と一致させたいところ。何度も言うが、別に正直である必要は(ry

 

 

経済学部に入った理由はなんですか。

経済に興味があったからです!とは言えんかった。なぜならおれは経済を学ぶゼミに入ってないから。

実際、経済学部選んだのなんて一番融通が利きそうっていうか、一番将来の幅が利きそうっていうか、そんな理由だ。なので、正直に答えた。

 

 

就活の軸を教えてください。

就活の軸ってなんやねん。

おれは最後までわからんかった。

正直何言っても平気だと思う。

大切なのはただ一つ。一貫性だ。

後述する「志望動機」に直結する価値観を示すことができるか。それだけだ。

「どのような基準で就職先を決めますか」という質問にも、軸を定めておけば容易に答えられよう。

 

 

難易度★★★

志望動機をお聞かせください。

必ず聞かれるくせして難しい質問。んなもんあるか。黙って内定出せボケカス。おまえらが選ぶんじゃなくておれが選ぶんじゃタコ。

などとは言えないので、真剣に考える必要がある。面接のキモとなる質問だ。

因みに、答えた後で「別にそれうちじゃなくてもよくない?」と聞かれるのは必至。受けない企業も研究して、その会社の強みを知っておく必要があろう。

その意味で、業界研究はなんだかんだ大事。

 

 

今後のキャリアパスを教えてください。

キャリアパスってなんぞ?」と一瞬脳がフリーズした。最終面接で落とされた企業があったが、この質問に上手く答えられなかったことが一因になっている気がする。

具体的な仕事内容もわからないのに、何十年後と想像を膨らませるのは難しい。的外れなことを言えば、研究が甘いと思われる

「今後の業界はどのように変化すると思いますか?」という質問も同じだ。研究大事。

座談会などで社員の展望について質問するのは手だろう。

 

 

弊社の志望度を教えてください。

模範解答の決まっている質問。答えるのは簡単だ。

しかし、続けて他にどこを受けているのかを聞かれた際に、

また、「他社の選考状況を教えてください」という質問も大いにあり得る。これは非常に厄介。

明らかに「より知名度の高い」「より給与の高い」企業があると「ほんまに第一志望?」と疑われる

きちんと業界研究して、その企業の強みを見つけておこう。上手く決まればドヤ顔できる。

また、全くジャンルの違う職種、例えば金融の面接で不動産受けていると言うと、そこに突っ込まれる、などもあり得る。「あくまで御社が第一(にっこり)」という姿勢は崩さずに、先述した「就活の軸」に沿って説明しよう。「ね?軸からはブレてないでしょ?でも一番はあなたよ 」と言えればどうだっていいぜ問題はナアアアアアアアアアシ。

 

 

挫折経験を教えてください。

挫折なんてしたことない。おれぁ順風満帆な人生送ってンだ!

強いて言うなら…失恋?あは☆

とは言えんから、中学時代に成績がダダ下がりしたことにした。その後の解決策も話せたし、まあ及第点だろう。大切なのは、どんな風に考え、自らアクションを起こしたか。

 

 

自分が何をしているのかもわからないまま、就活が終わる。

内定を貰った帰り道、電車の窓から流れゆく景色を眺める。

この先の人生が決まったことへの不安と昂奮が入り交じり、何も考えられない。

 

 

ただ、おれは随分救われた。

おれには、これといって優れたものが一つもない。

なのに、六度の面接を通過して、内定を貰った。

そのうちの一人でも「アウト」判定を出したら、文字通りアウトだったのに。

何か光るものがないと認められないのではないか、と思っていたのに。

 

 

何も出来なくても認めてくれる人はいるのだと、少し、ほんの少しだけど、自信になった。

その意味で、就活は安寧を齎した。

今はこの僅かな安寧を楽しむとしよう。