とらの徒然

ネコ科のペンギン

恋愛脳・リコール

ぼくが彼女を見つけたのは、去年の夏明け、ちょうど一年前くらいの頃だった。

場所は教室。大教室で、真ん中より少し後ろ。

席は近くはなかった。今でもはっきりと覚えている。ぼくを基準に左へ7つ、後ろへ1つ。そこに彼女は一人で座っていた。

 

 

別に覚えようと思ったわけじゃない。よく覚えてるな、と自分でも驚いている。

ぼくは記憶力にあまり自信のある方ではない。覚えなければ、と強く意識しないと数秒後には忘れていることがほとんどだ。家では親に「鳥頭猿太郎」なんて呼ばれているくらいだし。だから、覚えているということは、それなりに衝撃だったからだろうと思う。

 

 

当時、ぼくには仲の良い友達がいた。勿論男だ。その友達もぼくと同じ教室で同じ授業を受けていて、授業中に2人でLINEをしていたのが事の発端だった。

 

 

LINEしていることからわかると思うが、その友達とは隣同士で座っていない。彼にはガールフレンドがいて、カップルで受講していた。ぼくは彼らに気をつかって、離れた位置に一人で座るようになっていたのだ。

 

 

「ぼくは黒髪ストレートでショートボブの子が好き。」

そんな話になった。どんな見た目の女の子が好きとか、よくある話だけれど、正直くだらないと思う。今どれだけ可愛くたって、老いればどうなる。髪型を変えて、整形すれば誰でも理想に近づける。見た目がどんなに好みでも、人間的に合う確率は見た目に依らない。

それでもぼくは、黒髪ショートが好きだった。理由?特にない。本能で愛している。

 

 

ぼくはLINEをしながら、ちらと友達の方を見た。位置は左に10、後ろに1。カップル受講なんて羨ましいを通り越して妬ましい。と、そんなことを思っていたら、見つけた。

 

 

位置は左へ7、後ろへ1。ちょうど視界に入る位置だった。

これからバイトなのだろうか、その子は一人で、スーツ姿だった。

一人で講義に出ている人は少ないにも関わらず、その子は凛と自分のことにのみ集中していた。

そのせいか、自分だけでやっていけるという強さで溢れている気がした。

ぼくはそんな彼女の佇まいが、雰囲気が、綺麗だと思った。なんてったってーー。

 

 

なんてったって、彼女は黒髪で、ショートヘアだったから。

 

 

ぼくは前を向き、友達とのLINEを続ける。

「おまえの3つ右隣りの子、可愛くない?」

 

 

「え、そう?そうでもなくない?」

すぐにそんな返事が返ってきた。ぼくの感性はずれていると何度か言われることがあったが、そうだろうか。正直周りがどう思おうと関係ない。ぼくが可愛いと思えば、ぼくが綺麗だと思えば、ぼくの中ではそれは可愛いし綺麗なのだから。

 

 

というか今思えば、ガールフレンドが隣にいる状態で、別の子を可愛いとは言えないよな。これはぼくが気を利かせるべきだった。は、なんでぼくが気を使わなきゃいけないんだよ。

 

 

翌週もまた、その子はまた同じ席に座っていた。今度は私服だった。

落ち着いていて、上品な私服。

そこらの頭の悪そうで、騒ぐしか能のない女子大生の皮を被ったチンパンジーとは、違う生き物に見えた。彼女の周りだけ、空気が澄んでいる。少なくともぼくの目には、そう見えた。そして、これから毎週この授業がある度に、彼女を探すんだろうという予感があった。

 

 

実際、ほぼ毎週、その子を見た。

彼女はいつも一人だった。

誰かと話しているのを見たことがない。

楽しそうに話す人たちを羨む顔も見せなかった。というより、そんな人たちなど見えていないかのようだった。その姿に、何度憧れたことか。ぼくが目指したい場所だった。

その生き様とオーラが、ぼくを引き付けて止まない。顔がかわいい子なんていくらでもいる。もし彼女がかわいいだけの子だったら、鳥頭なぼくの記憶に残り続けはしない。

馬鹿だなと思う。どんな理想を抱いたって、向こうはぼくのこと知らないのに。ぼくだってその子の顔しか知らない。名前も、クラスも、趣味も、性格も、なにも知らない。

 

 

なら、声をかけてしまえばいいのではないか。

授業後、教室を後にする彼女に、声をかける。

肩でも叩いて、どこのクラス?いつもあの辺座ってるよね。

実に簡単なことだ。

 

 

しかし、ぼくにはそれができなかった。

理由もなく話かけられるほどコミュニケーションに自信はない。悲しい。

すたすたと離れていく背中を見守ることで精一杯だった。再び悲しい。

 

 

そうこうしているうちに期末試験になり、そこで一つ驚いたことがあった。

彼女を唯一見る機会だった、件の科目とは別の科目の試験教室で、彼女を見たのだ。

 

 

「え、この授業だったの」

その授業は必修で、クラスが指定されているものだ。記憶違いでなければ微積だったはずだ。しかし微積の授業で彼女を見たことはない。ならば、答えは一つ。同じ先生だけど、別の時限の授業。彼女の背中を見ながらそんなことを考えていたら、試験終了の鐘が鳴った。

空欄の目立つ解答用紙を見つめる。ぼくはペンを置いた。

 

 

そのテストの後、クラスの連中とわいわいがやがやと話していた。

「あの答えなんだった?」「あ、マジ!?同じだこれは単位来たわ」「えー普通にわかんなかったー」「おまえもっと体左にしろよ!全然見えなかった!」

 

 

教室内には同じように盛り上がっているグループが4,5組は見られた。必修なのだ。落としたら来年も同じ授業を取らねばならない。不安になり、答えの確認をしたくなるのは当然の理屈だろう。

 

 

しかしその子は、テストが終わるとすたすたと教室を後にした。

誰と話すでもなく、辺りを見回すでもなくだ。当たり前のように歩いて行った。

 

 

やっぱり、素敵だ。

初めて彼女を見た時の感想が蘇る。不必要に群れないとはなんと素晴らしいことか。自立してる女性ほど美しいものはない。女性を鳥に例えるのもどうかと思うが、群れてピーチク騒がしいスズメより、一羽で静かに水面を見つめるアオサギの方がかっこいい。周りを見回しもしない潔さ。目が眩みそうで、思わず追いかけたくなった。

簡単なことだ。肩でも叩いて、テストどうだった?教室いたよね?そういえば何組なの?

 

 

しかし、ぼくにはそれができなかった。

 

 

勉強やサークルで学校に残るというクラスメイトと別れ、ぼくは帰路についた。

やっぱ話しかけられないよなぁ、と内心ぼやきながら横断歩道で信号を待つ。

何気なく視線を動かすと、彼女もまた信号待ちをしていた。うぉあ!三歩で触れる距離!

今が声をかけるタイミングで、ラストチャンスかもしれない。期末試験が終われば春休みだ。来年も会える保証はない。

そう思ったら、簡単に体は動く。

肩でも叩いて、よっ、微積教室同じだったよね。もう帰るの?

 

 

しかし、ぼくにはそれができない。

動いたには動いたが、それは一歩後ろにだ。

一歩後退し、逃げるようにスマホを開いた。

もっと気軽に声をかけられる性格だったらよかったのに。自分に無意味な八つ当たり。

 

 

家に帰り、一枚の紙を引っ張り出した。

テスト中に考えたことを確認するためだ。あの微積の教室にいたということは、クラスは限られてくるはず。そして、同じ先生の授業ということは、クラスが隣の可能性が高い。

ぼくが引っ張り出したのは、入学記念アルバムに載るという、クラス写真の紙だ。同期の経済学部の生徒たちが、クラスごとに写真に収まっている。

ぼくは彼女の顔を探す。いない。いない。ここにもいない。

彼女を見つけることはできなかった。というかぼくも写真に載っていなかった。面倒がって、写真撮影を怠ったのだ。彼女もそうなのだろうか。

 

 

春休みが明けた。

春休みの間、何をしていたかは覚えていない。記憶力に自信がないと言ったろう。

まあ、でもどうせバイトくらいしかすることもないだろうし、多分バイトでもしていた。因みにぼくは塾講師をしている。当然、スーツだ。

そういえば、あの子もスーツを着ていたな。あの子も塾でバイトしているんだろうか。

 

 

新年度が始まり、二年生!息をつく間もなく、サークルの新歓期間になった。

新入生に片っ端からビラを撒く、例のアレだ。本音を言うと面倒。というかビラ配りを男女ペアにしないでほしかった。新入生にとっては、先輩が男女ペアの方が都合がいいのはわかる。女の子相手に男二人で勧誘する絵面はいかがなものかと思うさ。

でも、ぼくの気苦労は半端ない。女性とろくに会話したこともないのに、ペアでチラシを配れだって?ただでさえ新入生に声をかけることになけなしのコミュ力を振り絞っているというのに。大学二年目にしてこの精神状態。男子校の呪いは恐ろしい。

 

 

しかしやってよかったと思うことが一つあった。

ペアの女子がチラシ配りの最中、一度誰かに手を振ったのだ。

知り合いかな、とぼくは何気なく視線を追い、数メートル先でチラシを片手に手を振る、そう、あの子だ。

 

 

「!」

 

 

思わず一瞬身が固まる。大丈夫、大丈夫、向こうはぼくを知らない。どうやら別のサークルの勧誘をしているようだった。

思いもよらぬ巡りあわせ。結局彼女らは手を振っただけで会話することはなかった。ぼくはペアの子に、何気なく聞いてみた。何気なく。興奮を隠し切れただろうか。

 

 

「今の子は?」

「昔うちのサークルに入ってたんだよ、もうやめちゃったけど」

なんと。ありがたい情報だった。と同時に惜しい気もした。

ぼくはこのサークルに、去年、つまり1年生の秋ごろに入った。むぅ、もう少しタイミングが合えば、知り合えたかもしれないのか。

 

 

そして思う。一人じゃない彼女を初めて見た。

どこかのサークルに入って、楽しく笑っているだろうか。

いつか、話しかけてみよう。

もう半年も思い続けたことを、またこの日も繰り返す。人は愚かだ。

 

 

新歓期間が終わり、本格的に二年の授業が始まってからも、たまに彼女を見かけた。

これまた必修の授業で見かけたので、やはりクラスが近いのではないかと思った。

基本的に彼女は一人で授業を受けていたが、一度、誰かと隣に座っているのを見た。

後ろから彼女が笑う姿を見た。あぁ、あんな人懐っこそうな顔もできるんだ。

向けられているのは見知らぬ男だった。

 

 

少し嫉妬した自分に驚いた。 

純粋な憧れ、尊敬。いつか関われたらいい。それだけだと思っていた。知り合いですらないし、未だに彼女の名前も、クラスも、何も知らない。知っているのは入れ違いでサークルに入っていたという事実だけだ。嫉妬する要素などどこにもない。なのにどうして、とどこか既に解を得ている心に問うたりしてみる。

 

 

一学期の後半、彼女を見る機会が少なくなった。

座る席を変えたのか、はたまた授業に来なくなったのか、真偽はわからない。

 

 

こうして、二年前期の授業が終わり、期末試験に入った。

必修の狭い教室で、久々の彼女を見た。もうクラスが近いことは確定的だった。

久々に見た彼女は、髪が伸びていた。長くなった髪を束ねて後ろに垂らしていた。

これもいいと思った。きっとどんな髪型だって肯定的に捉えたのだろう。黒髪ショートはきっかけに過ぎない。別に髪型が変わったってーー。

 

 

ここでぼくは少し、ズルい手を使った。

テストで席を指定されることはない。だから、彼女の後ろに座った。

 

 

わが校ではテストの際、出席シートを書くことになっている。

その紙は教室前方から順に後ろの人に手渡していくシステムで。

書く内容は、クラス、名前、学籍番号、学生証の有無。

 

 

ぼくが彼女の後ろに座れば、必然的に出席シートは彼女から回ってくる。

若干ストーカーじみてキモイと思った。けれど、これを逃すわけにはいかなかった。

 

 

テスト中、彼女の名前をようやく知った。

ここまで何か月かかっただろう。邪道みたいなやり方だが、名前を知れたことは大きい。クラスもわかった。恍惚とした気持ち悪い笑みを抑えきれない。今ここで立ち上がって踊りたい衝動に襲われる。ようやくだ。ようやく、一歩だ。

試験終了の鐘が鳴る。勢いに乗ったぼくは、二歩目の準備をする。多少なりとも彼女を知っているという優越感が、ぼくを動かしたのかもしれなかった。

 

 

決心を固めろ。解散の号令がかかった後、話しかけるんだ。

今度は卑怯なやり方ではなく、正面から。

どう思われたっていい。訝しがられたって構わない。

最初からぼくに失うものなんてないじゃないか。恐れることはない。

簡単なことだ。第一声さえ放ってしまえば、あとはなるようになる。

肩でも叩いて、よっ、どうだった?

 

 

解散の号令で、立ち上がる。

わらわらと皆が教室から出ていく。

 

 

ぼくは立ち上がったまま、固まった。くそ、くそ、なんで!

動けない。たった一歩なのに!

 

ぼくの後方では、同じクラスの数人が終わったばかりのテストについて話している。ぼくは体を中途半端にそちらに向けて、彼らの話を聞いているフリをした。頭にあるのは止めどないシミュレーションだ。どう話しかけよう。どんな言葉なら言えるか。極度の緊張状態で発せられる言葉は何だ。

 

 

彼女はぼくの前の席で参考書を広げだした。ちらと見ると、今行われたばかりの科目の参考書だ。

ぼくの持っている参考書と同じだった。そのことに少し嬉しくなる。相変わらず誰かと答え合わせとかはしないらしい。でも答えは気になる。そらそうだ。これ落としたら再履修だから。人間らしい一面を知って少し嬉しく思った。

 

 

気がつけば、教室内に残っているのはぼくと同じクラスの数人と、彼女だけになっていた。

 

 

彼女が参考書を広げたのがここで本当によかった。

そのまますたすたと退出してしまったら、ぼくの決心は間に合わなかっただろう。

大丈夫、第一声さえ放ってしまえば、あとはなんとかなる。

 

 

ぼくは一歩、二歩、前へ進む。

そして座っている彼女に目線を合わせるように、少し、屈んだ。

 

 

肩を叩く、なんて言ってきたけど無理だ。

とてもじゃないが触れない。気恥しさでどうにかなってしまいそうだった。

 

 

でも、意外にも声は、ちゃんと出た。

「ねぇ。」

 

 

第一声さえ、第一声さえ放ってしまえば、あとはなるようになる。行け!

血潮が全身を巡るのを感じる。心の声が、背中を押す。後戻りなどできない。長い時間熟成させた想いが、溢れてくる。

 

 

彼女の眼を見ながら、第二声を形にすべく、唇を湿らせる。

いくつもの偶然が重なって、今この瞬間がある。去年、ぼくが途中からサークルに入ったこと。向いてない新歓に参加したこと。そしてぼくが結局サークルを辞めたこと。遡れば、友達と好きなタイプの話をしたこと。彼女とクラスが隣だったこと。今、彼女が参考書を眺めていて、ぼくが後ろの席に座れたこと。

数多の偶然に味方されて、今、ぼくらはここにいる。

 

 

「ねぇ、〇〇〇〇ってサークル、入ってたんだよね」

 

 

物語が、幕を開けた。