Re:乙姫 後編
善は急げ、という言葉がある。
「おぅるゎァァァアアアアア!」
結果、こうして既に戦いは始まっている。
スマホを持たぬイヌに協力を仰ぐべく、海辺を去った桃太郎と浦島太郎だったが、相手が戦力を揃える前に攻撃を始めた方がよいのではないか、という結論に至った。
そこで浦島は目的地を自宅に変更し、家族の協力を仰いで急遽キビだんごを作成。
一方の桃太郎は、イヌの元へ趣き説得を試みた次第である。
「え?やだよめんどくさい」
イヌは器用にハナクソをほじりながら答えた。
「前みたいに美味いもん持ってきてくれたら考えてやらなくもないよ」
偉くなったものである。以前桃太郎と共に鬼退治を成功させてから、犬はすっかり堕落していた。無理もない。鬼退治はそれほど立派な功績だったのだ。何もしなくても好きなだけエサを貰える。何もしなくても尊敬される。怠けず謙虚に研鑽を重ねてきた桃太郎の方が、一般的に見て異端であろう。
サルとキジのLIMEの返答も似たようなものだった。
「ウホッホウホッホ」
「そんなものは若いものにやらせておけぃ。年寄りに働かせるとは世も末だな」
彼らに使命感など、最初からなかったのだ。
彼らはただエサが欲して、ついてきただけだった。後先のことなど考えちゃいない。良くも悪くも、動物的な本能に従っている。
だからーー桃太郎はそこにつけこんだ。
またあの絶品が味わえるんじゃぞどうだ食いたいじゃろうそうだお主らが普段もらってる食べ物とはレベルの違うまさに頬の落ちるような天の授かりものじゃぞいやーあれを食べずにお主らが死にゆくと思うとわしも心苦しいなぁと、浦島のキビだんごなど見たことも食べたこともないくせに、口から出まかせをペラペラと喋った。
(わしも汚い大人になったものじゃ)
桃太郎は少し悲しくなった。うわべだけ取り繕って何になるというのだ。昔の桃太郎はもっと…だがそれは綺麗事だ。世の中を生きる、大人の世界というのはそういうものだ。
桃太郎を賞賛する声が上がる一方で、非難する声も多くあったことを、桃太郎はよくわかっていた。自身の出生が謎なこともあって、鬼退治は有名になるための自作自演なんじゃないかとか、一度の成功だけで調子に乗るなとか、ろくに働かずに戦うことしか能のないクズとか、血に飢えたバケモノとか、数えだしたらキリがないほどに。
桃太郎は、それらに耳を貸さなかった。
桃太郎は家事ができない。勉学もできない。
自分にできるのは、剣を振るうことだけだ。
ーーなら、極めてやろうじゃないか。
非難の数だけ剣を振った。
剣を握らなかった日など一日たりとてありはしない。
風の日も雨の日も嵐の日も。インフルエンザにかかったって。
自らを律して剣を振るった。
いつしか、家内は剣を振るうことしかしない桃太郎に飽き飽きして、何も言わずに家を出て行ってしまった。
桃太郎は泣かなかった。
悲しみを紛らわすように夜な夜な剣を振るった。
いつしか賞賛の声も止み、桃太郎に近づくものもいなくなった。
平和な世界に英雄はいらないのだ。
役目は終わった。桃太郎の時代は終わったのだ。
鬼退治の話だって、今は昔。
過去の栄光にすがるつもりはない。
だから、桃太郎はもっと強くなろうと、剣を振るうことで自己を肯定したのだ。
「おぅるゎァァァアアアアア!」
鬼の猛攻を、老体とは思えぬ華麗なステップで後方へと避ける。鬼に生き残りがいたとは。戦いしか脳がないなら、こやつを倒すことが桃太郎の使命だ。
鬼は攻撃の手を休めない。仇に全霊の憎しみを向け、金棒を打ち下ろす。
「くたばってろよォ!クソ野郎がァ!」
桃太郎はすんでのところで回避する。熟練の戦士は大きな回避をしない。無駄な動きは最小限。そして攻撃は最大限。
相手は赤鬼一人と亀が一匹、そして亀の横に控えた子供が三人。
見たところ亀は戦闘力はないようで、後ろから見ているだけだ。子供の鉄砲は注意していれば問題はない。桃太郎の鍛え上げられた瞬発力ならば、鉄砲の弾など発射されてからでも避けられる。
(いける……!)
桃太郎は腰の剣を抜く。毎日握った相棒だ。
磨き抜かれた刀身がキラリと光る。
「ぬん!」
「くッ…!」
金棒を持った鬼だろうと関係ない。
桃太郎に切れないものなどないのだから。
金棒の先端を切り落とされた鬼は、驚いて後ろに飛びずさる。桃太郎はその隙を逃さない。右足に力を溜め、追撃。と同時に、短く叫ぶ。
「今じゃ!やれ!」
奇襲。隠れていた三匹が岩陰から飛び出す。腐っても獣。桃太郎の足よりも、彼らの方が数段速いーー。イヌ、サル、キジの牙爪と、桃太郎の剣先が鬼の心臓を捉えた、その時。
「……なにッ!?」
瞬きの合間で、イヌとサルが視界から消えた。
否、痕跡はある。
実体を失った代償に、紅の血溜まりが二つ、砂浜に生まれていた。
突然のことに桃太郎とキジが一瞬固まる。
その間に血溜まりは砂に吸い込まれてより大きな染みとなって。
「ぅおらッ!」
空中のキジが鬼に叩き落とされる。
そしてまた、一瞬でキジの肉体は消え、血溜まりと化す。キジなど最初からいなかった、そう疑ってしまうほどに。
(バカな…一体何が)
桃太郎の思考が加速する。鬼の金棒は打撃のはずだ。打撃を受けて体が潰れることはあっても、一瞬で血溜まりになることはない。それにイヌとサルは?攻撃を受けた様子もなかったのに一瞬で姿が消えた。しかし血溜まりが存在する以上、彼らはそこにいて、何らかの干渉を受けたーー。
桃太郎は、鬼へと向かう空の中で、考える。
そして、ぐるぐると回転する脳に差し込まれた声は。
「残念だったな」
亀の渋い声だった。
ちらりと亀を見遣る。足が地につき、振り下ろしていた剣先が鬼に触れる瞬間、桃太郎は敗北を悟った。
(不覚…)
一瞬の逡巡が、戦場では命取りとなることを桃太郎はよく知っている。
刹那、3つの弾丸が鍛え抜かれた筋肉をいとも簡単に貫いた。
血飛沫が上がる。
※ ※ ※
「お、おじさん!」
「ええい案ずるな!」
離れて見ていた浦島の声に力強く返し、桃太郎はすぐに態勢を立て直す。
「おぉ、見事なものだ。まだ立ち上がる気力が残っているとはな」
亀は桃太郎に素直に感心していた。今の発砲でくたばるものだと思ったからだ。
「大したものだよお前は。鬼ヶ島から奪った財宝を返してくれたら見逃してやらんでもないぞ」
「残念、だったな。そんなものはとうにないわ」
撃たれた腹部を押さえながら、桃太郎は答える。
それを聞いた鬼は声を荒げた。
「何だとォ!相当な額だったろうがよォ!」
「国に持って行かれるんじゃよ。たとえ個人でやったことでもな」
「解せぬな。お前は国に頼まれて鬼退治をしたわけではないと聞いている」
「そういうものなのじゃよ、だから財宝はもう返せない」
「そうか。ならば致し方ない」
ふいに、足下で微かに何かが蠢くのを感じ、桃太郎は慌てて飛びずさる。
怪しく光る小さな刃が無数に現れ、そして次の瞬間には消えるのを桃太郎は見た。
なんだ、今のは。
そして理解する。この無数の刃が、イヌたちの肉体を一瞬で失わせたのだと。
「オラオラオラァ!」
考える暇はない。前方からは鬼の容赦ない攻撃。
左手からは発砲。
痛手を負って動きの鈍った桃太郎にできることは限られている。
イヌ、サル、キジを失い、使えるカードはもうない。遠くにいる浦島に剣は持たせてあるものの、期待はできない。
地面にいては得体のしれない刃に切り刻まれる。
空中にいては金棒と鉄砲の餌食だ。
出血量からして、命はもう長くない。
ならばーー!
力を込めて、最後の跳躍。
狙うは、赤鬼ただ一匹。
「うぉぉおおおおおおおお!」
雄叫びを上げる。戦いで死ねて、良かった。
まだ死んでないのにそんなことを思う。
発せられた弾丸が容赦なく腹部に刺さり、熱い何かが溢れゆく。
悲痛に叫ぶ青年の声が、遠く聞こえる。
あとは頼むぞ。若者よ。
すっかりじじくさい言葉を思いつくようになったものだ。
剣先が、鬼に届く。
金棒はまだ円弧を描いている最中で。
(倒せる!)
再び、銃弾に襲われる。
構うな。痛みなどとうに忘れたわ。桃太郎は最後の力を振り絞って赤の肉体をーー。
ーー空を、切り裂く。
どさりと地に落ちた桃太郎は辺りを見渡す。
やった、のか。
いいや、やってない。
静かだった。発砲音も、鬼の叫びも、聞こえない。
聞こえるのはざざーっと砂浜に押し寄せる波の音だけ。
だだっ広い砂浜に、桃太郎は一人だった。
ーーなんだ、ここは。
鬼も、亀も、子供達も、浦島も、イヌらの血痕すら、ここにはない。
何事もなかったかのような静かな砂浜…。
咳き込む。
血を吐く。
身体のあちこちから命という命が零れゆく。銃弾に貫かれた穴という穴から、零れ落ちる。
ーー死ぬ。
ーー死ぬ。
ーー死ぬ。
何が起こったのか、わからない。
ただ一つ言えるとするならば。
桃太郎は死にゆく理由を、奪われたのだ。
誇り高く戦って散るという夢を奪われた。
戦いを汚された。
決着をつける寸前で、何者かの邪魔が入ったのだ。
自分はなんのために毎日剣を振ったのか。
戦って、美しく散るためだ。ようやくその機会を与えられたのに、汚された。
許せなかった。しかしもう事態をどうこうする力は残っていない。
「ちくしょう…!」
砂を掴む。血に染まった、赤い砂だ。
ぐちゃぐちゃで気持ち悪い。
暖かい…。
寒い…。
波の音だけが、聞こえる。
波の音、だけがーー。
※ ※ ※
「あァ!?」
突然標的を見失い、鬼が吠えた。地面に金棒を打ち付け、亀を振り返る。
「おい亀ェ!一体何がーー」
責め立てようとして、鬼は言葉を失った。先ほどまではいなかった人物が、音もなくそこにいたからだ。
絶世の美女。
高級だと一目でわかる美しい服を纏い、片手にキセルを握った、妖艶な美女がいた。
彼女がふうとため息をつくと、その口元から出た煙は静かに空へ消えた。
「何者だァ…」
おおよそ答えは出ている。
しかし、気配を微塵も悟らせずに出現した彼女に、そう聞かざるを得なかった。
「知っているだろう。この御方は乙姫さまだ」
「何をしやがったんだァ…!」
「助けてあげたのにその言い草?野蛮ね。礼節を知らないのかしら」
「誰も助けてくれなど言ってないだろうがッ!!」
「あなたは確かに竜宮城に助力を頼んだはずだけど?」
「それはそうだ!ンだけど!オレは戦いたかった!仇を討ちたいと言ったろうがッ!ずっと、ずっと桃太郎と戦う機会を待って!それが叶ったというのにどうして!どうしてそれを…!」
「うるさいわね。黙らないとあなたも"飛ばす"わよ」
乙姫は鋭い目で鬼を見据え、キセルを向けた。
鬼は慌てて口をつぐむ。
飛ばすというのはさっき桃太郎が急に消滅したアレだろうか。
金棒を振り下ろす先にいたはずの白髪の老人は、忽然と姿を消したきり戻ってきていない。もし、乙姫の助けがなかったら、鬼は桃太郎の剣に引き裂かれていた、かもしれない。しかし相打ちに持ち込める可能性だってあったのだ。それに、もし負けたとしても、因縁の対決を邪魔されるよりはずっとよかった。
桃太郎も鬼も知る由はないが、奇しくも彼らの考えは一致していたのだ。 戦いたい、と。
鬼は恨みの視線を、今度は乙姫に向ける。
乙姫は鬼に興味などありませんと言いたげに澄ました顔をして、岩陰に向かって歩き出した。
「さて…ちょっと!そこの青年!」
乙姫は唖然としている華奢な男にキセルを向ける。
しかし、当の本人は呼ばれていることに気づかない。
頭の中は、桃太郎を失ったことでいっぱいだった。
「おじさん…おじさん…?」
うわごとのように繰り返す。
頭のどこかでわかっている、もうやられてしまったと。まだ光っている血溜まりがその証拠だ。
しかし、否定してほしい。否定、してくれ。
誰か。誰か。誰か誰か誰か誰か誰か誰かーー!
ーーちょっと!
脳に差し込む鈴のような声に、浦島ははっとする。
「無視してんじゃないわよ」
あぁ、知っている。
知っている。知っている。
この声を知っている。
あの顔を知っている。
あの指を知っている。
あの体を知っている。
あのキセルを知っている。
浦島太郎は知っている。
女が、歩いてくる。
知っている。あの歩き方を、知っている。
女が、微笑む。
知っている。あの笑顔を、知っている。
「おじさん…」
うわごとを繰り返す。
知っている。いや、思い出した。おじさんがどうなったのかを。
誰が何をした結果なのかを。
知っている。知っている。知っている。
ーーそうか。
「武器を捨てなさい」
気がつけば、女は目の前に来ていた。
浦島太郎は握っていた剣を静かに地面に置いた。
「あなた、私を知っている?」
知っている。実によく。でも今は。
「い、いや、ど、どこかでお会いしましたでしょうか?」
おどおどと怯えたフリをした。心は自分でもビックリするほど冷たく冴えている。
「気のせいかしら。川島一郎ではなくて?」
誰だよと内心突っ込みつつキョトンととぼけた顔をする。この女が勘違いしているのなら丁度いい。
「とにかく、私たちを見られた以上、ただで帰すわけにはいかないわ。一緒に来てもらうわね」
「いいのかよ。そいつ、桃太郎の仲間だぞ」
すかさず亀が口をはさむ。
乙姫は優しく振り返り、
「この男が私たちに勝つ手段なんてないでしょう。竜宮城に連れて帰って話を聴き出した方が有益よ」
乙姫は今度は顔を鬼に向ける。鬼は依然、立ったまま固まっている。
「あなたも来なさい。もう生きる理由なんてないのでしょう。うちに来るといいわ」
「あァ…?」
「安心なさい。うちの亀は優秀よ。泳げなくても、水中で息ができなくても、彼の背に乗っている間は安全よ」
乙姫は、鬼がカナヅチなことも知っているらしい。
乙姫は集まった面々を順番に見ると、よしと気合を入れ、
「じゃあ行きましょうか。竜宮城へ!」
※ ※ ※
「一つ、聞いてもいいですか?」
亀の背に乗って水の中を移動中、浦島太郎は鬼に話しかけた。
「なんだァ?」
「僕のこと、恨んでないんですか?」
「なんでオレがテメェを恨まにゃならンのよ」
「だってほらおじさん…桃太郎おじさんは仇だったんですよね?それなら仲間の僕のことだって」
「ガハハハ!面白いやっちゃな!」
「…えっと」
「何言ってるンだ、テメェがオレらの故郷襲ったわけじゃねェだろうがよ!おかしなこと言うなァ!」
「そういうもん…なんですかね」
「知らねェよ。テメェら人間がどう考えるかなんてよォ。テメェらは深く考えすぎなンだよ、もっと楽に生きろ楽に!ガハハハハ!」
明るく笑っていた鬼だったが、急に黙り込む。
どうしたのかと覗き込む浦島に、鬼は静かに問いかけた。
「でも、でもよォ…どうしてオレたちゃ襲われなきゃならなかったんだ」
「…え?」
「どうして人間は、桃太郎は、鬼ヶ島を襲ったンだ?」
「…?そりゃ僕たちの家畜を食べられたり家を壊されたりしたからじゃないですかね」
「あァ、なんだァ…そういうことかァ」
「……」
「そいつァ、悪かったな」
「え」
「いや、オレたちも生活があってなァ、鬼ヶ島はあまり土地が良くねェから作物が育たねンだわ。作物が育たねェと家畜も飼えねェ。だから人間の土地に食料調達に行ってたンよ。確かにオレたちゃ人間がどんな生活してるかなんて考えたことはねェし気にもしてねェ。食べ物がどこにあるかもわかんねェから道塞いでる建物壊したりもしたかもなァ」
鬼はしんみりとした口調で続けた。
「そうかァ、テメェらの家とか食いもんだったンかァ……そいつァすまなかったな」
鬼はそう言って頭を下げた。
浦島太郎は言葉もない。とても鬼が言うセリフとは思えなかったからだ。
「それじゃあ……」
「これをやめて欲しい、とか言ってくれりゃァ戦わずに済んだのかもなァ」
「そんな……変な話ですけど僕、鬼ってもっと悪い生き物なのかと思ってました」
「ガハハハ!違いねェ!オレたちから見りゃァ人間なんて虫も同然だったかンな!」
ひとしきり笑った後、鬼は声を潜める。
「でも、復讐の機会を、奪われた恨みはあるわなァ」
声こそ静かだったが、鬼の激情が浦島の身体を貫く。恐ろしい。だがそれだけに、心強い。先日は耐えきれなかった鬼の白い牙も、赤い肌も、すべてが頼もしい。
共通の敵は、ただ一人。
※ ※ ※
「そろそろ帰ります」
「あァ、オレもだ。ここは綺麗だが、生まれ育った故郷が一番だなァ!」
「そうですか。残念です」
食事を堪能し終え、立ち上がる浦島太郎と鬼に乙姫は笑顔を投げる。
美しい笑顔だ。
だからこそ、どこか嘘くさい。
今の残念、という言葉だって。
(そんなこと気付けないよね……)
一度目なら、と太郎は内心苦笑い。
「それではこの宝箱をお持ち帰りなさいな」
乙姫はそう言って、太郎と鬼に一つずつ、宝飾の施された木箱を手渡した。
知っている。この箱を。玉手箱とかいう名前だったはずだ。
「ありがとうございます」
太郎は恭しく頭を下げる。
「ここでは世話になりました。敵として出会ったのにここまでの厚遇を受けて感謝してます」
太郎は爽やかな笑顔で言葉を連ねる。
「美味しい食事を頂いた上、宝箱まで頂けるのはどういう風の吹き回しですか?」
「言わなきゃわからないのかしら。私たちのことは黙っておいてほしいということよ。それができないのなら……」
「あ、いえ、わかりました。口止め料ってわけですね。あ、そうだ」
乙姫は退屈そうに右手でキセルを弄りながら太郎の話を聞いている。
「ーーお礼といってはなんですが、僕が作ったキビだんご、食べていただけませんか!?」
「キビだんご?」
「はい!とても美味しくできたのでお口に合うかと思います!」
「そう。では頂くとするわ」
浦島太郎は再びお辞儀をしてから、木箱を床に置き、代わりに腰の袋からキビだんごを取り出す。
念のため、毒入りを用意しておいてよかった。
「どうぞ」
乙姫はなんの疑いもなく、その毒入りの丸を口に含みーー
ーービクンと固まり、右手のキセルを手放した。
乙姫の右手からキセルがすべり落ちていく、その光景を太郎は固唾を飲んで見ていた。
物が落ちるほんの数秒が、異様に長い。
世界がスローになったかのようだ。
静かに二人の会話を聞いていた鬼の指先が動く。
木箱、いや玉手箱の錠が外される音がした。
直後、カツンと、落ちたキセルが地を叩く音。
この場所にはまるで自分ら三人しかいないみたいだ。
宴会中賑やかだった人魚たちが、急に様子が変になった乙姫に気づいて静まったからだろうか。
いやーー違うな。
太郎の視界に色づくものは、もう。
乙姫が倒れ出す。
太郎は同時に初動を開始する。
床に転がるキセルを屈んで掴むと、太郎は後ろを振り返った。
鬼が頷き、太郎も頷き返す。
鬼の手によって微かに開かれた木箱から、淡い煙が漏れている。
その隙間にねじ込むように、拾った乙姫のキセルを木箱に入れた。
ゴロンと鈍い音が、木箱の中にこだまする。
それを確認した鬼は、静かに木箱の蓋を閉じた。
「なに、を…」
蹲る乙姫を見下ろす。
二度も同じ手は食うものか。
これでもう、浦島太郎が飛ばされることはない。
「あなたがキセルで生み出した煙に包まれた者は、別の時代にタイムリープさせられるんでしょう。あなたは煙を操る力を持っている。桃太郎おじさんが砂浜から消えたのは、あなたがおじさんを煙に巻いたからだ。しかしあなたは煙を操れるだけで、生み出せるわけじゃない。キセルさえなければ敵ではないということですね」
すらすらと言を並べる浦島を、乙姫は悔しそうに見つめる。
「き、貴様…やはり川島一郎ーー」
浦島は人の好さそうな笑みを崩した。
穏やかな浦島は、珍しく怒っている。
浦島は転がる美女に向け、世界で一番冷たい声を放った。
「しっかり覚えておけ。一度お前に殺され、今度はお前を殺す男の名だ」
ーーいや、知る必要もないか。
その言葉を合図に、乙姫に大きな影がかかった。
美しい顔が、ゴキゴキと嫌な音を立てて潰れていく。
血液と脳汁の滴る足で、鬼は容赦なく何度も、何度も、何度もーー。
その様子を太郎は冷え切った目でただ、見ていた。
あぁ、楽しいな。本当に楽しい。
「聞こえるか、皆!」
ざわざわと、音が満ちていく。
人魚たちは怯えた目で、声の主を見た。
本当にいい気分だ。浦島太郎は舐めるようにぐるりと宴会場を見渡した。
思わずくくくと笑みが漏れる。
これから、ぼくは、おれは、このおれが、このおれを!
「ーー乙姫と、そう呼ぶがいい」
新たな主が、誕生した。
〜~Re:乙姫【完】〜~