とらの徒然

ネコ科のペンギン

花束

女にとって、花束はどれほどの価値があるのだろう。
正直なところ、花束を携えて電車に乗っている女などは、幸せ者なのだろうと思っていた。
けれど、持ち主に取り残されたはなびらを見ていると、案外そうでもないのかも、と少し残念に思う。


ゆるやかな恋模様を描く小説を読みながら、おれは電車に揺られている。
土曜日の夜だからか、車内はかなり空いていて、ボックス席を一人で確保することができた。


時折、肩肘をついて窓に流れる景色を眺める。
今日のこと、昨日のこと、明日のことに想いを馳せると、自分は所詮大きな流れの一部でしかないのだと思えた。
景色の流れを止めることも、後戻りもできない。
いい景色を逃したとしても、電車はお構いなしに前へ前へと進んでしまう。
されど、今も過ぎゆく四角い明かり一つ一つに、どこかの誰かの暮らしが、想いが、願いがある。
そしてそのすべてが同じ夜空の下で輝いていると思うと、どこかノスタルジックな気分になるのだった。


本に再び視線を落とそうとしたそのとき、誰かの立ち上がる音がした。
トカトカと響くヒールの音が、扉へと近づく。
30歳くらいの女だろうか。
足取りから、酒に酔っているとわかった。
因みに、扉はとうに閉まっている。
閉まった後で駆け寄ったところで意味があるようには思えない。
泥棒を捕らえて縄を綯う、というやつだ。
虚しく立ち尽くす女に無視を決め込んで、電車は相も変わらず前へ前へと走り続ける。


女が観念して座席へ戻る。
そのとき、赤い何かが目を掠めた気がして、おれは思わず顔を上げた。





花束だ。





赤い薔薇が10本ほど、透明なビニルに包まれている。
それが無惨にも女のヒールに踏みつけられて、引き摺られていた。
女はそれを気にかける様子もない。


座席に腰掛けるときにようやく女は足元の違和感に気がついた。
花束を拾い上げーーだが次の瞬間、再びそれは地に落ちていた。
ドサリ、と鈍い音が響く。
実際はさほど鈍い音でもなかった気がするけど、少なくともおれの耳にはそう聞こえた。


これから誰かにあげるものだろうか。
いや、酒に酔った帰り道ならば、きっと誰かに貰ったものだ。
恋人か、友達か、それとも別の何かか、部外者のおれには知る由もない。
だけど、女を大切に想っている人には違いない。
花束は美しく飾られ、有り合わせのものにはとても見えなかったからだ。


女は花束を無造作に隣の座席に置くと、居眠りを始めた。
おれはなんだか悔しい気分になった。


気付いてほしい。
誰かの贈り物を、ぞんざいにしないでほしい。


女は結局、次の次の駅で降りた。
そして電車から降りたところで、女はまた花束を落とした。
女からすれば、片手を塞ぐ邪魔な手荷物でしかないらしい。


ホームに軽快な音楽が鳴り響き、扉が閉まり始める。
女が座っていた座席の下に赤いはなびらが一枚取り残されているのが、たまたまおれの目に入る。
世界はスローだ。
まだ間に合う。間に合う。
間に合うから、気付いてくれ。
忘れないでくれ。
だが無情にも、時は止まってくれない。


本に視線を落とす。
誰かの暮らし、想い、願いの光が一つずつ、静かに静かに消えていく。
世界の片隅のはなびらは、誰の目に止まることもない。
仲睦まじいカップルも、化粧に夢中な茶髪の女も、腕組みをして顰め面をするおじさんも、誰しもが自分の世界に夢中だ。


バタバタと電車を後にした化粧女は、踏み潰したものに気付かない。
入れ替わるように乗車してきた坊主頭の学生は、その大きなカバンの下敷きになったものに気付かない。


ならば、おれが覚えておいてやろう。
車窓に数多の光。
速度を緩めない電車。
すべての光を捉えることは難事なれど、せめて見えたもの、そこに託されたものは、おれの中に残してやりたい。
こんな小さな落し物だって、誰かの暮らしや想いや願いを運んでいるんだから。
報われない想いを救ってやりたい。


柄にもないことを考えた。
少々面映ゆい心持ちになって、電車を降りる。
トイレに行こう。
さっき飲んだコーヒーのせいだ。
コーヒーの利尿作用は案外バカにならない。


駅のトイレに入ると、便器の中に黒いものが見えた。
黒いーー布だ。
小さなリボンがついていて、それは女性用の下着にしか見えなかった。


どんな落し物だって、誰かの暮らしや想いや願いを運んでいる。
けれど、男子トイレにそぐわない"それ"は、ロクな物語を齎さないだろうと、おれは確信してしまった。