とらの徒然

ネコ科のペンギン

旅行記 箱根

朝。
白濁した露天風呂に浸かりながら、耳を澄ませる男がいた。
竹の壁の向こうで、ちゃぷんと水の音がしたのだ。
方角的に、そちらは女湯。
そろそろ身体も温まってきたから、部屋に引き上げようと思っていたのだが。


周囲を見渡す。
誰もいない。実質貸切。
コロナのおかげで宿泊客自体がかなり少ないのだろう。


再び壁の向こうに意識の矛先を向ける。
温泉の効能に、煩悩の解消はないらしい。
そして、「迷ったらGO」と高校時代の部活顧問に教わった。
やらずに後悔するよりもやって後悔しろ、と向かいの家の柴犬も吠えていたではないか。
そう、今や全世界が、おれの味方だ!


などといった煩悩を鎮めるべく、緑茶を啜る。
緑茶には煩悩の解消の効能がある。
と勝手に思っている。
いやあ、急須で淹れた茶はなんか美味い気がするな。


布団で伸びている連れを見る。
なんでこいつはメガネをかけたまま寝ているんだろう。


ふと、昨日のチェックインを思い出した。
そこで貸切風呂を勧められたんだっけ。
丁重にお断りして部屋に来れば、布団がぴたりと並べられてるし、これはもう、そういうことなんだろうか。
そういうことなんだろうな。


まあ、こいつははるばるおれの家まで車で迎えに来てくれた。
まるで彼氏だ。なら、おれは彼女だ。
運転も任せきりにしてしまったし、ゆっくり休むといい、ということで先程の朝風呂には一人で行ってきた、という背景がありましたとさ。


朝食の時間になると流石に連れも目を覚まし、二人でエレベーターに乗り込んだ。
1階広間。
大きな窓が見えるように、すべての机が同じ方向を向いている。
と、思いきや、窓から見える景色がさほど良いわけでもないところを見るに、単に向かい合わせを避けているだけらしい。コロナの時期の宿の運営も大変だ。


机の上には食事が置いてあるのだろう。
推定形なのは、それが大きな白い紙で隠されているからだ。
節々にコロナ対策を感じる。
だが、おれは全く別のことを考えていた。


隠されているものを暴きたくなるのは、人の真理だと思う。
この紙の下でどんな豪勢な食事が待っているのだろうと、ついつい期待してしまう。


同じように、パンツは隠れているから価値がある。言ってしまえばパンツなんてただの布だ。価値も意味もない。だが、それが隠れていること、そして見せまいとする心意気にエロスがある。隠さねばならないと本人が思っているにも関わらず、ふとした瞬間に見えてしまう、だからそそるのではないのか。そういう意味では、青年誌の表紙を堂々と飾る下着姿の女など、微塵もエロさを感じない。例えば、自転車に乗る女子高生のスカート、階段を昇ってくる女子大生の胸元、電車でスマホを眺めるOLのブラウスのボタンの隙間、注意深く見れば世界には美しい光景が広がっている。それはエベレストの頂上からの景色よりも、ナイアガラの滝を眺望する高台からの景色よりも、遥かにロマンチックでアトラクティブだろう。そうだ、先程「見せまいとする心意気にもエロスがある」と書いたけど、これは例えば階段で自らの尻を押さえるミニスカ女などが該当する。下着が見えないように、と考えての行動だろうが、彼女らは何も理解していない。その隠そうとする心理こそが、どれほどの興奮を与えるか!下手なパンチラよりも遥かにそそる。諸手を挙げて喝采したい。その心意気にアッパレ!と。


などといった煩悩を鎮めるべく、緑茶を啜る。
さっきも言った通り、緑茶には煩悩の解消の効能がある。
と勝手に思っている。
丁度料理が和食で、緑茶があって助かった。
因みに、どうでもいいことだが、食後にコーヒーが出てきたのは、今でも納得がいっていない。和食とは。


「彼氏」が運転する車に乗り、まずは大涌谷へ向かう。
箱根と言えば大涌谷大涌谷と言えば、なんだろう。
白い煙が岩肌から立ち上る様は、さながら地獄のようだと言われている。
おれの罪を裁こうとでもしているのだろうか。


そうは問屋が卸さない。
おれは大涌谷で、名物の黒たまごを2つ食べた。
1つにつき寿命が7年伸びるらしいから、当分の間は地獄へ行けない。
それに、14年の間に天国へ行ける人間になるかもしれないしね。
だから安心して、デートで来ているカップルたちを呪っておいた。
でもよくよく考えたら、今のおれは「彼女」だった。


再び「彼氏」の運転する車に乗り、今度は駒ヶ岳へ向かう。
ロープウェイで頂上へ昇った。
天気が悪かったせいか、頂上は霧がかかっていて、5m先は霞んで見えた。誇張ではない。
おれらは遊歩道を歩いたのだが、少し離れると相手の姿は見えなくなるし、周りの景色は当然何も見えないし、なんなら進むべき道も見えない。
まるで人生だ。
そして見えないものほど……いけない。
カバンからペットボトルの緑茶を出し、ガブガブと飲んだ。


最後に、彫刻の森美術館に行った。
裸婦の銅像があちらこちらに聳え立っているものだから、目のやり場に困った。
なんてことは、まるでない。
あたかも美術品を嗜んでいます、といった顔で凝視した。緑茶も必要ない。
さっきは「青年誌の表紙を堂々と飾る下着姿の女など、微塵もエロさを感じない」と言ってしまったが、目の前にいたら見るだろう。そういうもんだ。
服を脱いでる途中の裸婦像を見る。作ったやつは天才だと思う。芸術がなんたるかを理解している。


「彼氏」の車の中でスピッツの「おっぱい」を高らかに歌いながら、帰路についた。
別に通り道でもないのに家の近くまで送ってくれたのは感謝でしかない。ありがとう。
さあ、どうオチをつけようか。
と思ったけれど、そもそも旅行記にオチは必要ないことに気がついた。